二次的被害が止まらない国、日本

最近ずっと例の有名人の炎上ばかりを見掛ける。加害者当人には何かしらの事情があったとは思うのだが、周りの人間が加害者を庇うのはあまりにも酷いものである。

 

加害者を庇う意見を語る人間の中にも、境遇を耳にしたことのある人間もいたのだが、仮にその意見を通すとして、被害の範囲を見るに被害者にそこまで与えられる距離感ではなくても加害していたように伺えるので、その意見で納得する気にはなれない。夫婦の関係と上司部下の関係性はそもそも距離感があまりに違いすぎるのだ。

 

そもそも被害を受けることによる損失は、目先の利益で支払えるほど簡単ではないことが問題だ。被害を受ければあらゆる精神疾患のリスクがまとわりつく。その責任を果たして加害者は取れていただろうか。おそらくそうではないのだろう。かつてのあらゆるニュースが、加害されたトラウマによるものだったのでは。彼らにとって禁酒するということは、私たちの知りうる禁酒とは違った難しさがあったのではないか。そんな苦しみを背負わせることの何が愛情だというのか。

 

私は加害者が驚くほど多くの人間を傷つけている上で、さらに複数の人間が言葉による加害を多くの被害者に発信されている今の状況が恐ろしい。加害者を許し被害者に責任を問おうとする暴力はあまりにも恐ろしい。その一言は個人の暴力から社会の、世界からの暴力に変わってしまうのだから。

 

人は孤独になってはいけない。繋がり助けを求めることが大切だと語る人たちもいるが、それは日本という国では成り立たない価値観なのかもしれない。こんなにも加害者に優しく被害者に厳しい国なのだ。加害者を庇おうとするその言葉が庇おうとしてる相手を過去に傷つけた加害者を許す言葉になる可能性の方が高いというのに。私は人が嫌いだ。他の人ももっと人が嫌いになればいい。加害者が許され守られるこの国において人との繋がりというのはトラウマの連鎖ばかりを招くのだ。