わかるわけではないこと

子供は義務教育も終わっていないから政治を語る資格がないと言っている人がいた。私はその言葉を聞いて許せなくなった。義務教育が無事完結出来た人=いじめの加害者であったりいじめの傍観者も含まれるからだ。小学校は無理やり通わされる苦登校をした後、中学で通えなくなった。

 

だから私はいじめ加害者に権利を与えていじめ被害者を葬りさろうとする人達が許せない。社会の厳しさを知らないと、学校で理不尽な暴力を振るわれたこともない人達が、自分は大人として苦労しているから権利があるから苦労してないお前には権利がないと言ってくることが納得いかない。PTSDにならなくて済んだ環境に恵まれただけだ。

 

私は学校という社会の縮図と呼ばれる場所で受けた差別や暴力、大人からの無視や二次加害な言動によりトラウマが酷く、今でも苦しんでいる。だからトラウマや心理のことを検索することが多い。今はそれでわからないことがあり困っている。

 

折り紙の本を読んだとき、この間に何が起きたのかよくわからなくなることが子供の頃は頻繁にあった。それと同じように私は心理学関係も読んでわからなくなる。自分と対話をしようという話のときである。トラウマで構築されてない部分とか、大人の自分などと言ったものがトラウマのある自分や子供時代の自分と話すというものだが、その話しかける役の自分というものがある感覚がないのである。トラウマを意識した時点でトラウマ人格なのに誰が話しかけるだと疑問になる。

 

トラウマの人格のようなものと二次元に浸っている自分が行き来していて、三次元にいながらトラウマに汚染されていない存在というものが自分の中に存在しない。どちらでもない瞬間なんて風邪で頭が回らない時くらいだ。そうした行き詰まりのせいで心理学の読み方さえよくわからなくなる。

 

怒る父や笑っているけどセクハラのような言動をする父、それが外を知る前の私の世界であったし、外に触れるようになったら世間体を気にする母による激しい過干渉が始まった。私は最初から恐れがなく現実で暮らしている自分の人格がないのだろうか。恐怖や絶望か根底に染みついた怒り以外の自分をどうしても見つけられない。自分の中に大丈夫な大人を見出せない。録画したアニメのこどものおもちゃを見ていて自分も橋の下で捨てられていたのかなと思ってるくらいだから、よっぽど嫌われていると無意識に感じていたのだろう。