影の支えを探してる途中の悲しさ

Twitter発達障害が話題の時はほぼ確定して発達障害が悪口を言われているときだ。そう思ってその時はクリックしなかったのだが後々になって話題なのか知ってしまった。

 

私は前々から有象無象の炎上により被害者に抑圧するのを要求する側なのだとわかっていたのでその医師のことは信用していない。一般人はなんか名前を見たことある有名な医者の人程度にしか考えてないから信じてしまうのかなとか思うと悲しくなる。

 

医師を追っているうちに医師のことを知ってしまって距離を置くことは何度がある。別の医師のTwitterを見てたら突然悪魔崇拝系の陰謀論にハマって痛々しい画像をリツイートするようになった時は医師という立場でフラッシュバックを誘発する言動をしていたし開き直っていたのがわりとショックだったし、それ以上に仕事柄耳にすることが多く子供に対するあまりに残酷な行動に対して誰よりも疑いようがなかったのだろうと医者の心情を思うと悲しくなる。トラウマというものは治療者も追い詰める恐ろしいものなのだ。トラウマのあるものが人と触れても幸福になれない原因のひとつなのかもしれない。

 

医師の好き嫌いで言えば依存症関係で症状の原因を排除すればいいと思っている医師は嫌いだ。依存症は依存しているものに逃げるのが悪いと言うが、そういう医師が根本的な問題を投げ出して患者や依存している対象物を原因だと押し付けることに逃げるのはいかがなものかと思うのだ。長年抑圧的な親のところにいながら通院を続けても悪化するばかりだった私はどうしても背景を見なかったり自分と同じように恵まれた背景があると勝手に思っている人は好きになれない。環境が改善されない間に自助努力ばかりを求められては症状が緩和されない自分への嫌悪感は煮詰まり、鍋ごと焦がして使い物にならないような有様になるのだ。

 

私は長期間何かしらから虐げられて味方のいない期間が長かったことから、全部私が悪いんだという恐怖や、過去に我慢を強いられた怒りなどにより能動的な療法に手を出すと悪化の一途を辿ってしまう。対人関係療法森田療法や曝露療法や認知行動療法と呼ばれるようなものは相性が悪い。私が好きな医師が嫌いだと言う人もいるので、そこはやはり症状や境遇の違うがあるのかもしれない。

 

いろいろ話したが、本を読んだり理解のできない発言があった上でも好きな医師はいて、そういう医師の言葉は密かな支えになっている。過去の理不尽やトラウマになった相手の行動を見て、やっぱり私は間違ってなくて相手がおかしかったのだとわかったり、自分の体質としてこれは難しかったんだとわかって行動の指針になることがあるからだ。いなかったも同然どころか足を無限に引っ張り続ける親とは違って、合ったこともないはずなのに自分のことを見てくれて、自分が何なのかを教えてくれる存在だ。