100点じゃないと攻撃される世界を知らないだけ

テストで100点じゃないと怒る親というのは創作物上ではなく実在する。97点あっても3点の損失を責める親がいるということは非常に苦痛な人生である。これがテストの点じゃないにしても自分な好きなものとか、自分のその日にやったこととか、ただ親と楽しかったことや悲しかったことを共有しただけのことで、否定が返ってくる人生になると、子供は自らという存在をないように透明になって過ごすか、極端なほど完璧主義者になるか、親の理想に従順になるしかなくなる。

 

そうして出来た生き方が、やれ神経質だの斜に構えてるだの、性格が悪い、自分がない、逃げてるとか、やる気がないとか、認知の歪みだとか罵詈雑言を向けられることが非常に不快である。

すぐに批判される環境、あらゆる挙動が笑いものにされる環境、自分の好きなものや愛するものを使って脅してきたり、人格否定してくる環境というのは、自身の人生にとっての自己満足的な正解が奪われるのだ。一挙一動が罪と罰になるのなら、じっと固まり隠れ潜むしかないのである。

 

それだけのことを言い訳ばかりだとか、人として当たり前のことを言っただけとか、人の言葉を聞けない駄目なやつ扱いしてくるだけである。今までゴミみたいな環境にいたこと全部を自己責任だと押し付けてくるこの自分を善人だと思ってる平凡な人生の鬱憤晴らしをしたいだけの人間が、さぞ自分は真っ当ですという顔をして迷惑な存在だという目で見てくることに私はうんざりとしている。私は非現実な親の理想と自分を比較する目や、普通と一緒ではないものであるという目に疲れている。だから私は人間が嫌いなのだ。

 

毒を入れられたカレーを食べた人たちが、以前の気持ちでカレーが食べられるわけがないのに、カレーを食べない人間は人として未熟だなんてわざわざ言うようなこの世界が私は嫌いだ。私とお前は同じじゃない。お前の想像しているところとは別のところで、違う人間ってだけなんだ。癒えない傷に触れてほしくないだけなのに、それを世界はただプライドが高いと一言で切り捨てる。そんなアメフト選手みたいに四六時中タックルするような世界で、骨折した状態で立てるわけがないのだ。私だってこんな壊れた状態の自分にうんざりしているが、そうなる前に戻れないのだ。そうならなくていい世界の記憶すら私にはないのだ。他人がどう合っても自分には関係なく、その人にとって正しいとされる生き方をしていたら、今ある命はきっと昔に失われていた。だから今更お前らの言う普通に従えって話ばかり延々とされることに疲れた。私は休みたいのだ。減点される自分もいないどころかで。