なぜ親ガチャ叩きは努力を崇拝するか

親ガチャという言葉を批判したがる人間はなぜか自己責任や努力の問題にしたがる。しかし残念ながら自分が努力している状況と親がゴミカスな環境は両立する。環境の問題提起をしているときに、なぜそんな返答をするのかやはり理解に苦しむ。それもわざわざ苦しんでいる人間に向かってお前の努力が足りないせいと言いに来るのである。何をしに来ているのか全くわからない。

 

確かなのは努力というものに異様にこだわる連中だということだ。私は別に結果が出ようと出なかろうと努力をプライドにすることは別に構わないと思う。そうでもしないと自分を肯定できる口実がない人間もいるのは想像がつくし、それで自己否定を抱かないなら精神衛生的にもいいだろう。しかし親のせいにするなと言ってくるような人間が、他者をこき下ろすことで自己を肯定する行為を行うことはあまりに筋が通ってないのではないかと思う。自己承認を他人を利用してしか出来ない人間の口で何を偉そうに自己責任論を語っているのだろうか。

 

彼らのような人間はいつも苦しんでいる人間に向かって海外の貧しい子供の話をして来るので私は言いたい。トラウマで苦しんでいる人間には高学歴の人間も地位の高い人間もいるのだと。別に金がないとか独身であるとか子供がいないとか、そういうのと対極な人間でも親による苦しみは抱えてしまう。私はトラウマ関連の知識を得るために本を読んでいたが、あらゆる立場にあっても苦しみはそうそう消えるものではないのである。

 

こんな話をすると自身の話ではないんだろうと突っ込みが来るだろうが、そういうなら何故、海外の貧しい子供じゃないのにその話を持ち出したのだと返したいわけである。

 

東洋経済オンラインは説教のような話をして他人の苦しみに首を突っ込んできた。彼らの独特な自分は出来ていているとか、自分は頑張っているとか、常に自分のプライドのために己を常日頃肯定し、正当化し、自己啓発だがサウナで整うだか嫌われる勇気を読むだかしてどうにかハイな状態を保っている時のノリで口出しをするのは間違っている。飲酒運転で交差点に突っ込んで人を轢いているようなものだ。

 

しかしそうした特殊な状態になっている自覚がある人はあまりいないだろう。彼らは万年自己啓発依存になって立ち止まって考えるという行為が全く出来なくなっているのではないだろうか。

 

こうした自覚のない人間の暴走を止める方法は現代には存在しないものなのだろうか。自分の疾患で悩んで検索しているときに、定期的にこうした的はずれな説教が出てくるので非常に困る。本人やその家族が読むことで、極端な話をするなら自殺幇助や家庭破壊を誘発してるのではないだろうか。もし何かしらの精神疾患や障害を抱えている人がいたら、サイト名を見た時点で避けるように気を付けた方がいいかもしれない。そして普段からそうしたサイトを読んでいる人は、誰かに困り事を相談された時、ただ自分のやり方や社会常識だと思っていることを言っただけになっていないか懸念をした方がいいだろう。もしそれに何の問題がと思うのであれば少なくとも人の相談や愚痴を聞くのは特技ではないと認識した方がいいだろう。ちなみに私も得意ではない。

 

自分のことなんて知りもしない癖に勝手に決めつけていると思った人がいるとして、そんな文句をつける人間がなぜ努力が足りないと決めつけるのかと私は言いたい。

 

こうして考えて怒りを吐き出しているうちに、私はただそう思える環境にいただけで、きっと努力を崇拝する人もそういう環境にいただけなのだと思ってきた。結局はガチャである。