自分なんか大嫌いの声がずっと聞こえる

今日はツナ缶を捨てた。4か月前の。最初は躊躇した。缶なんだからたかだか数か月とか、私が1日だけ体調壊したところで私の一日は200円分の価値もないんだしとか、そういうことを考えていた。だけど夫から実際体調壊して苦しむじゃんって言われて、モヤモヤしながら捨てた。食べることも捨てることも出来なくなって、夫に捨てる作業が増えると罪悪感が湧くからもう捨てるしかないのだが、自分なんてどうでもいいのに、大嫌いなのにと自分を攻撃したい感情だけはツナ缶を捨てた後にも止まらなかった。

 

トラウマ処理の時もタッピングで自分を殴りつける衝動になってしまうほど、私は私が嫌いだし、私のことを激しく憎んでいるのだ。こうして文字を書いている今も私なんか大っ嫌いって言葉が常に大声で聞こえてくる(無音だけど頭や体が受ける衝撃は大声と同じ)。

 

この嫌いだって感覚がどうやっておさまるかわからない。もう親の言うとおり友達を作ろうとすることもやめて、1日にこれ以上別の物に割くほどの時間もあるわけない。見捨てられ不安や独占欲に苛まれることのない分だけフラッシュバックはあれど日々のリスクも減った。トラウマが山ほどあって怒りが20年分放置されっぱなしのわりには生活を回しているはずなのに、自分はなんて駄目なんだ最低なんだと自分を責めて否定する声がさっぱり止まることがないのだ。

 

いじめにあったり、その状況から声をあげても助けて貰えなかったことや、家でずっと虐待されていたこともあって、長らく自分の尊厳みたいなものがゴミのように扱われてきたのは紛れもない事実で、環境が変わってもその感覚をなかったことには出来ない。

 

斎藤環先生の本には、家族以外の人間から承認のリソースを得ろという話も書いていたが、私には到底無理な話である。普通の人間は私のような能無しにわざわざ自分のリソースを割くようなことはしない。こんな無能にリソースを割くような人間が求める見返りというのは、逆に承認に飢えていてかつ、それによる謝礼や変化や影響力を求めているのだが、私の能力ではそうした相手の空白を埋めることも出来ない。何より人目を気にする親から育てられた私にとって人という存在は毒としての力の方が強いものなのだ。