欠けた心

今週のお題「かける」

私は人の心がわからないらしい。自分の心がわからない人間は人の心がわからないらしく、自分の心というのは聞かれることでわかるようになるものらしい。思えば聞かれるというのは自分の気持ちを答えるのではなくて子供の頃から望まれていそうな答えを返していたかもしれない。好感度を上げるような感覚なのだ。

 

だから自分の心がよくわからない。自分が好きだと思っていることが夫から見たらそうでもなさそうで、そして年数が経って昔より知見が増えたにも関わらず私の興味関心は広まらないのは何故かと聞かれる。

 

興味を持つとか好きになるというのは、恐ろしいことや悲しいことだと思っている。物は持てば捨てると脅す材料にされ、見られれば笑われる。途中でやめたら貶されるので、最初から興味関心があるように見せるのは危険だった。私は自分の感情に責任というものや因縁というものを付けられるのが怖かった。私にとって家族に見られない携帯ゲームの中の世界や夜中に誰もいないリビングで見るモニターの中だけが自由に動ける空間だった。

 

母は友達と遊ぶべきだと直接的だったり遠回しであったりしながら私の趣味を否定した。世間の目が大事な母にとって人の目1つは私の命すべてを掛けても届かないほど高い価値の物だった。私は友達と遊ぶたびにここが駄目そこが駄目と、家を追い出されたり物を捨てると脅されたり暴力に晒されることがあった。

 

人生を掛けても払えないような価値の物を絶対傷つけないように気を付けながら楽しく遊べと言われてもそれは無理だった。母の友達の子供とは遊ばなくてはならないけど、遊んだらまた母から怒られることが増えるかもしれない。そう思うと気に入られるのに必死だった。遊んでいる相手の子への好意の中に嫉妬や警戒心や罪悪感がまとわりついた。その子の周りがすべて邪魔者だった。人が増えれば増えるほど私が母から攻撃されて捨てられるリスクが何倍にも上がるから。

 

1人の子に合わせることは出来ても2人いたら意見が違うこともあるし誰かにとっては敵のようにならなくてはならない。そうなれば私はまた母から攻撃されてしまう。私には父がいたが、暴力的で不安定だった。母に捨てられるのが怖かった。私の人といるときの感性はそうやって小学校に入る前からおかしくなっていたのかもしれない。人の為に我慢すればするほど見返りの欲しさで気が狂ってしまいそうだった。私にとって友達から大切にされることで初めて母が自分を好きになってくれると思っていたから。心が貧しくてひもじくて仕方ないのに誰かに身を割く行為に私は耐えられなくなっていった。

 

私は人への好意も健全に持てない。特別人を傷つけてやろうなんて趣味をしているわけではないのに、身体の奥から本能的な恐怖と怒りと憎しみが湧きおこってくる。私はそういう存在になってしまったのだ。そんなことを考えるとそんなはずではなかったのにと涙が止まらなくなる。私はただ好かれたかっただけなのに、危険ばかりを覚えた体は人から好かれるほどうまく立ち回れる存在にはさせてくれなかった。私はこれからも人から身を隠して生きていくしかないのだ。

 

子供の頃は年の違う年齢の子供たちとゲームをすることでここまで不安や怒りに駆られなくても遊んでいられた。母の交流関係の外で気楽だったのもあれば、ゲームという共通の世界観やルールを共有出来たから辛くなかったのかもしれない。ただ彼らも交流関係が広まれば私の存在はどうでもよくなってしまうような気がしていた。人に価値があって私には価値がないという母による刷り込みはあまりに根深い。