クマの話題に思う加害者が排除される安心感

最近クマが多いらしい。去年は食べ物が多くて今年は少ないから増えたクマが下りてくるらしい。そしてクマを倒す必要も出てきて、クマの駆除を批判する人も出てきた。なぜそんなクレームをと思っていたら、クレームをつける人は社会に居場所がないからクマに感情移入してしまうという話を聞いた。

 

私も感情移入しやすい側の弱者ではあるが、私はクマには感情移入していない。それはクマという存在をいじめの加害者と重ねているからだ。クマという危険な存在が第三者の力によって排除される健全性に私は安堵を覚えている。それは私が子供時代に体験することが出来なかった世界であり、私に必要な世界観だった。だから私が嫌悪するのは、綺麗事を並べて自分の子供の危険を放置して見殺しにした母のような、クマの駆除にクレームをつけるような人たちである。

 

自分や自分の大事な人や居場所を守ろうとする行為がどれだけ健全で、それを放棄した人間がどれほど醜く恐ろしいか、それは誰もが知っていることではないのだろう。我慢や許しや禁欲的な振る舞いが、清らかで美しいという幻を見ている。実際にそばにいられると恐ろしいことこの上ないのだ。

まるでワンピースに出てきたドフラミンゴの父のように、周りの人間すら巻き込むような危険な行為なのだ。もっとわかりやすく言うなら親がギャンブルして子供に借金を背負わせたようなものである。

母の子供の安全性を犠牲に他者からいい親だと見られようとする行為は、私の人生に尋常ではない負債を背負わせた。子供の頃からいじめや虐待を受け、心療内科に通うこと15年の私からすれば、その偽善はクマに同情するほどの資格もないような生物として生まれる価値もない存在なのである。クマ駆除クレーマーにはそこまで思ってないが、私は自分の母には虫であれ魚であれ微生物であれ二度と親子とか血縁とかそういうものを持つ存在として絶対にこの世に生まれてはいけないと思っている。

 

安全な外野から綺麗事を並べても、目の前の悪意や殺意や危険からその価値観が守ってくれるわけではない。相手に同じ価値観があるとは限らないし、そういう価値観だと知った上で利用してくる人間だっている。だからこそ自分の周りの日常生活だけは落ち着いたものであってほしいと願うものなのではないだろうか。クマの駆除はそうして日常のために必要なものだろうと思う。