喉から手が出るほど欲しかったつながらない権利

私は子供の頃は友達がいなくてはならないと思っていた。母は私が公園でもゲームボーイをすることには変わらないのにやたら友達と遊ばせそうとして公園に行くように私に言うし、お小遣いが始まってゲーム用に貯めていると使わないからという理由でお小遣いのシステムが消失する。母にとっては友達と遊ぶために減るお金であるべきだったからだ。そして普段見ているキャラクターは常に誰かと一緒にいた。まるちゃんにはたまちゃん。さくらちゃんにはともよちゃん。

 

だけど現実の人間関係はセーラームーンとかどれみちゃんのような複数人であることが多かった。だけど私にはその人数である方法は微塵もわからなかった。複数人が喋っていると段々誰が喋ったのかわからなくなるというか、集中する先を細かく切り替える行為に脳みそが追いついてなかったような記憶がある。

 

それに加えて私は独り占めが大好きだったし、独り占め出来ないなら一人でいいとさえ思っていた。私は家庭内では常に孤独だった。父は母を愛していたのだが、母は世間体しか見ていなかったので、友達と何かしらの問題があれば私は家から追い出された。母が近所の親子で揃って食事をする時は、私は普段は何も言われない食事のマナーで怒られっぱなしで泣きっぱなしだったし、家から追い出されたりもした。スーパーで惣菜を買って食べようという時は怯えて持ち上げる必要のないつめたいそばを選んでいたし、追い出された時用にカップヌードルをリュックに入れておいたりした。私にとっては人と関わることが危険を伴うのは紛れもない事実だった。

 

父は母に迷惑を掛けるなというが、母の迷惑にならないというのは常に完璧な対応をすべての人類の前で行い、どんな理不尽も我慢することだったので、とても不可能なことだった。父自体も豹変してたまに激しく怒鳴り散らすので心の支えにはならなかった。父が帰ってくる前に怖くて涙を流しているほどだった。そういう父から嫌味ったらしく出来ないことを指摘されたり、失敗したときに大袈裟にリアクションをされたりするのは嫌だった。母が壊滅的なほど人目を気にして雑草を抜くような感覚で子供を殺すような人間なだけで、父も髪が癖毛なのは性格が曲がっているからだと子供に言うほど性格は悪かった。そういうことから学校のいじりいじられという定型の価値観をめっぽう嫌うように育ち、そうした幼少期からの学校生活は苦しみしかないものになった。

 

私はゲームが好きで、母のコミュニティ内の子供はゲームを子供に持たせていなかったので話がほとんど合わなかった。公園に持って行ったゲームボーイが、母のコミュニティ外の年下や年上の子供たちとシールを交換したりソフトを交換したりして遊ぶきっかけになっていた。父の転勤で引っ越した時もあまりダメージを受けなかったのはゲームという世界が変わらずそばにあったからだろうし、引っ越した先でも年下の子たちと通信してポケモンでポフィンを作ったりエラーを吐くまで当たりの席でスロットを回したりしていた。

 

それは学校内では出来ない交流の方法で、体育や運動会、音読や発表会のたびに晒しもので笑いもの。参加すればいなければよかったと言われ、参加しなければ逃げているとかサボってると言われるようになった。名前が男っぽいと馬鹿にされるところから始まり、父から馬鹿にされるようなことと同じにならないようにと警戒しては失敗し、同じことが起きてはパニックになり、次もまた失敗を恐れてパニックになる。私の人生には常に悪循環があった。

 

母に言っても他者に悪意があると全く信用せず、やる気が大事とか気持ちがどうこうとか、頭がおかしいから病院に連れて行くと脅されたりした。私はロッテンマイヤーさんがいるような場所に連れていかれるのではという恐怖でパニックになっていた。普通になるから捨てないでと泣いてすがったが、行けば虐げられるとわかっている場所に行きたくないと思うのは冷静に考えると普通のことだった。

 

私が引っ越したり進学したりいじめにあったり無理やり登校を強いられたり不登校になったり金が掛ったのにとまた無理やり登校して、最終的に高校の卒業証書と共に障害手帳を貰って、その後もデイケアで医師から怒鳴られたり、人とつながらなきゃと焦って通ってたフリースペースで利用者で困って施設の人に相談したら我慢しろと言われて分かったことがある。

 

人は一定の能力値に達していない人間とは関わりたくないし、視界に入れたくもないのだ。そして能力のない自分という存在は他者を前にしたら何の尊厳もないし、誰かから虐げられてもその能力のなさゆえに黙認されてしまうということだった。そんな私に必要だったのは紛れもなくつながらない権利であったし、きっと私と関わった人も私とつながらない権利が欲しかったのだろう。母も私とつながりたくなかった。ただ世間と繋がるために子供を利用しようとしただけだった。

 

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今の私に残っているのは複数の精神疾患のみである。何をしても失敗して笑われた記憶や、いじめられてても誰も助けてくれなかった記憶に直結して、パニックが起こるようになったからだ。家で一人作業をしているだけで何かしらが失敗しても手足がおかしくなって動けなくなり、眠るように意識を失うようになった。出来ない自分を解消しようとしてさらに何も出来なくなる。当たり障りのない家事をする以外のことが不可能なのだ。学生の笑い声が怖くてバスには今でも乗れない。怒りをぶり返すのが怖くて人から指摘されるのが怖いから、飲食店や病院などの曖昧なルールや気遣いで回っている場所も怖くて行けない。当然働けもしないし、質問も怖いから役所ごとも駄目である。

 

何より辛いのは価値観の孤独である。人の自由や夢や希望。人が繫がることによる未来などに希望を抱けなくなったので、あらゆる物語に私の心は追いつかない。子供の頃は楽しかったポケモンは今では社会的に上手くいった人間の説教にしか見えないのでずっと手をつけられていない。きっと私が人並みの人生を送れたら、こんなに嫌いにはならなくて済んだのだ。

 

人の過剰摂取による人への深刻なアレルギー反応は、最低限の繋がりというものを不可能にする。血の繋がる両親からも大切にされなかった私が辛うじてここに留まっているのは、心の一部が人々から殺されても二次元に一部が留まっていたことと、父が見せた母への愛で、この世に可能性があるのは男女の繋がりのみだという認識と婚活ブームが合致していたことによる偶然の結婚だ。集団だと狂う私も一対一の関係であればそこまで狂わないでいられるのである。こうして夫の金魚のフンであることによって、ようやく自分の人間関係の上限にあった生活になっている。

 

おそらく私はこれ以上のつながりは不可能である。三人いれば二人がつながり、私が不要と見なされる恐怖は脳や神経に張り巡らされてしまった。母のいう定型の幸福を語る言葉が私にとってはすべてが呪詛になってしまったので、トラウマの療法の言葉遣いともかみ合わないし、何を言われてもどうせ人並みに能力があって居場所が持てる人間だからそう言ってるだけだろうって感覚で終わってしまうのだ。過去であろうと私を嫌った人間がいたのは紛れもない事実だし、私の人生には次は大丈夫だと言い聞かせて失うものがあまりにも多すぎた。私には人間関係は毒なのだ。

 

夫といる上では当然、夫に楽しい話題を提供してやりたいが、フラッシュバックや反芻があって二次元にいる時以外は常に苦しんでいる。ようやく自分を大切にしてくれる人と出会えたのに、子供時代に奪われたものが多すぎて夫に何かをしてやれないことが今では本当に悔しいのである。

 

だから私はつながらない権利が少しでも増えて欲しい。こんな状態になってまで引っ越しや進学などがある中で、そこまでしてその場にいる人間と必死に仲良くなる意味などなかった。母は普段の私が偽物の笑顔で友達といるときの貴方が本物の笑顔だと言っていたが、それは目の前の子供を見ず自分のコンプレックスを子供に代わりに解消して貰いたいだけの趣味も楽しめないつまらない人間のいらない言葉だった。それより健康のために無理をしないことが私には必要だった。