飲み込んだ怒りの底で

私は私の好きな世界を探そうとしたり、夫の見ている世界を見ようとして再び傷つく。私は身動きをすることで自分の中にある刃物が再び自分を傷つけてしまったのだとわかると、その場で立ち止まるのであった。私にはこの刃物をどうするかなんて何もわからないのである。

怒るべき時に怒れなかった人間の尊厳は二度と取り戻せないのだと今ならわかる。飲み込んだ刃が今でも私を傷つけ続けるのだ。守られることがなかったのなら、何もかもを危険だと察知して冷静でいる場合ではないと思うことが事実なのだ。だから怒りの琴線に触れてはならなかったのだ。しかしそれを避ける方法は難しいものである。我慢がトラウマであるという中で、トラウマに触れない物語を探すことは無謀に等しい。

その作品であらゆる悪逆非道な描写にどうしてこんなことを思いながら不快感を感じていたはずなのに、許しを美徳とする価値観を見た途端に内臓がひっくり返るような痛みが胸に走ったのだ。まるでヘドロを内蔵に流されたように、ひっくり返して洗いたいくらいの異物が胸にじぐじぐと詰まっているように痛む。私は私の怒りを返すべき相手に返さないとこの怒りが止まらないのだろうか。母が苦しんで死ねば私は癒えるのだろうか。私の全人類が傷つけてきて誰も味方がいなかったという恐怖はあまりにも強烈に身体の中の記憶に埋められてしまったのだ。

言葉や本で癒えない。むしろ死にそうにさえなる。綺麗事や自己犠牲という光の影の世界にいる私を思い出させてしまうのだ。自己犠牲はされる側には美しいだろうが、する側に自分の身が巻き込まれて複雑骨折した痛みなんて、一言で言い表せないが酷いものなのだ。

私はまた横たわる。夫はまたつまらない奴だと言うだろう。きっと私は過去に殺されてしまったのだ。母に、父に、同級生に、先生に、医師に、カウンセラーに。みんなが私を殺したのに、生きてる面白みのある人間を私に求めることは難しいのかもしれない。