自分に向いてることが欲しくなる

夫に合わせるために始めた言語学習が完全にボロボロだ。癇癪をおこして全くできない。教材に手を出したが全く同じ部分で詰んでしまった。

 

寝る前にインプットして朝にまた勉強すれば覚えられるという話はあったが、寝る前に言語学習してはいけなかったのを今更思い出してしまう。行き詰まるとイライラが酷すぎて全然寝れそうにない。朝は家事に忙しく昼は頭がぼんやりしてるので夜を選んでしまったが、夜にイラついても寝る前にやけ食いとかネットサーフィンするのも大変なので、完全に時間の選定を失敗してしまった。 

 

こんなにイライラしてまでなんで楽しくないことしてるんだろうって虚しい気持ちになってくる。しかし私にとって楽しいってなんなのだろう。本当はもっと夢中になれそうなことがしたいけどなにも見つからない。

 

夫は勉強が面倒くさいから必死に言い訳してるだけだと言うが、やはり食器を洗うのが面倒なのとは精神的負担が比較できないほど強烈である。それが何故なのかを考えた。

 

頭の中は常に自分を責める声とそれを論破するために武装してる状態が続いている。そんな状態で少しでも勉強に行き詰まると自分を責める声に武器を与えたことになる。すると今度は勉強することを提案する自分を武装して必死に戦っているときに、そんなふざけたことをするんじゃない。戦うのは自分なのにと怒るわけである。

 

そうすると今度は勉強しようとした自分がボコボコにされるのである。自分を責める声と戦う存在も2つ同時に相手しなくてはならずボロボロである。

 

漠然と自分が常に間違っている気がする不安や、胸が苦しくて落ち着かなくて怒りがおさまらない感覚がするのはそうした内部の混沌さが原因なのだと思う。

 

自分が駄目だと認めようとか駄目な自分も自分だと受け入れようとは言うが、駄目な自分というのは人からの悪意や失意も混ざってしまった怨霊のようになっていて、私にはどうしようもないように思える。

 

もうわかったから、人が私を嫌うことも私がいない方がいいと思ってるのもわかったから、これ以上私が殺されないようにするからと。そんな風にいうことしか出来ない。弔うことはできても、救い出すことはできそうにない。これ以上殺されるわけにはいかない。そんな焦りが常々ある。医師には私がいない世界に行きたいということがあるが、細かく説明するとこういう話になるんだろう。こんな夜にそんな風に整理しても、失敗した影響による不快感で胸が苦しくて眠れそうにない。