いじめを台風に例えるなら大人たちは人殺しだ

インターネットでいじめは台風のようなもの。だから過ぎ去るのを待って勉強すればいいなんて話を見た。いじめは何か月も何年も起こり続ける。そんなに長居をする台風を少なくもの私の人生で体験したことなんてない。もしそんな台風があるなら社会の停滞どころではない。畑を見に行くタイミングなんてないし、雨のせいで浸水や地面が崩れてしまう。今のパキスタンを見るように今日明日の生活さえ危険な状態になる。台風というのはその瞬間過ぎ去るだけでも恐ろしいのに長居をしてしまえば、その後の生活さえままならなくなってしまう。だからいじめは恐ろしい。

 

現実不登校になった私は進研ゼミなんて微塵もわからなくなって勉強が出来なかった。出来ない、わからないという心の波に耐えられなくなってしまったのだ。こんなことも出来ないから酷い目に合うのだろうかとフラッシュバックが始まり、自分の頭を叩いたり泣き叫んだりすることが止まらなかった。無理やり行かされた期末試験で何もわからなくて自分はもう駄目なんだとわかってから、自分の中で勉強は出来ないものになった。不登校として別の場所に通っていてもにいても教室に戻ることを推奨される場所だった。それは非常にゆったりした場所で本来の授業からは離れた場所だった。それなのにこのテストをすることに何の意味があったのか、私にはわからない。まさか己を見直して一生懸命勉強しだすと期待でもしていたのだろうか。

 

本質的にこの人たちは私の味方ではないのだろうなと深く悲しくみじめな気持ちになった。いじめをしたあの人たちが正解で私が間違いなのだと世界のすべてが私を責め立てているようで恐ろしかった。みんなが加害者の味方で、あんな人たちに居場所を与える場所に行きたいと思えなくなっていった。大人達はみんな台風の中に子供を投げ出す人殺しだった。私にとって学校の同級生は自分の身を砕いた濁流も同然だったというのに。

 

その後も何度か勉強をやり直そうとしたが、自分が出来なくて駄目だと感じると一気に身体が委縮して息が苦しくなり、目も開けていられなくなるようになった。わかるまでゆっくりやればいいと言葉を念じても身体が自分を捨てることが止められない。頭痛や手足の痺れを感じながらすべてを呪うように状態が終わることを待つしかない。

 

今でも自己否定感から自傷行為をするので衝動を立てないように無気力に生きている。出来ることの範囲が狭くて自分でも自分が許せないのに、向上心は自分を殺してしまう。私の場合怒りの抑圧で矛先が自分に向かうようになってしまったのかもしれない。いじめを行った学生や放置した学年や学級の担当、無理やり学校に行かせた母や母に従うように言った父。私はすべての怒りが風化されないまま生きている。

 

中学生をすぐに不登校になったことにより失敗経験やトラウマ記憶などに穢されていない世界史の話は聞いていて楽しい。他の科目は独学で理解をするのが難しいが、物語を楽しむ娯楽のように読めるのでいいものだ。もしかしたら小学二年生の頃にちゃんと不登校になっていれば日本史や理科や英語も楽しめる人間になっていたかもしれない。