いじめ被害という轢き逃げにあった時点で国は年金を配るべき

私は学校でいじめにあって不登校になってから、バスで行くような場所にあるフリースクールのような場所に通っていた。この交通費は自腹。そして不登校になった子供が通う高校は私立で数百万掛かり、おまけに不登校生のケア能力に欠陥があったので精神疾患が複数増えた。その場所で心療内科を営んでいた医師は、あの学校のせいで荒れた子供が他にもたくさんいたと今でも怒っている。私の被害に怒ってくれるのはこの医師だけである(医師と会う前の被害には誰も怒ってくれないけど)

 

高校の先生に見たことないから障害手帳を見てみたいというので手に入れた障害手帳2級を見せるような状態に終わった。その障害手帳で通った就労移行支援では酷いモラハラを食らった。その間の期間すべてが母からの貴方のせいでお金がないという𠮟責や、貴方のせいで過食しなきゃいけないという当てつけ、父からの母がノイローゼになるなどの存在否定をされながらの環境だった。

 

今となっては発達障害(ASD、ADHDのダブル)、複雑性PTSD、統合失調症抑うつ状態などあらゆる症状が当てはまるようになり、通院歴も15年になってしまった。これだけ複合しているとこの精神疾患であるというアイデンティティすらないような孤独な存在になる。複合している状態に対応できる医者を探すのも難しい。怒りを爆発させない医者から薬を貰うので手一杯である。ちなみに薬は西洋薬は副作用ばかりなのでフラッシュバック対策に神田橋処方を飲んでいる。それでも風呂では過去の記憶が蘇って死ぬ。障害年金の77万とか絶対親や親族と暮らす前提の設計である。現代のトラウマ治療に手を出すような余裕を作ることは住まいという環境含めて困難である。

 

国はこんな状態になりかねない人間を現在進行形で量産している。いい加減に人殺し省に名前でも変えたらどうだろうか。

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文部科学省統一教会のおもちゃなので日本の子供が死ぬのはむしろ好都合なのだろう。統一教会に関しては、憶測でがあるが結婚を勧めて一緒に祝ってくれた恩人は日本が来て宗教弾圧された時に亡くなった可能性があるので初代教祖が心底憎んでいるのは事実なんだろうなと感じている。今の教祖はダンスをさせるのが好きらしく、日本の体育にダンスが増えたのはこの教祖の犬が仕込んだのではないかと思わないこともない。それくらい日本の教育は意図的に苦しめ滅ぼしたい人たちで出来ているのである。

 

そういうことで日本の教育は金を吸い上げることと子供を虐待することしか考えていないので、国はまたアメリカに入ってもらうか何か知らないが、改めて学校というシステムそのものを変えるべきである。宝塚のような高所得層の精鋭しか揃わないような場所でも密室であればいじめが起こるなら、もう家庭の豊かさでどうにか出来るものではなく、学校という枠組みそのものに問題があると認めるべきだろう。どうせ人員不足で今のままというわけにもいかないのである。

 

しかし国は緊張感も使命感も何もない。優秀な人間はまず官房長官や外交官や財務省などに充てたいし、おまけで見栄えよく女性の政治家は入れたいという中、少子化社会で世襲制の政治家も既に人員不足なのは目に見えているのでまともな人間は減ってきている。文部科学省においては統一教会の犬を置いて教祖に媚びを売るためだけの枠である。つまり教育のプレッシャーをもっと大きく国全体で感じなくてはならないのである。

 

そこで提案するのがいじめの被害を受けて診断書が出たらその時点で最低値でも生活保護と同額の金を生涯支払うようにするのである。学校でいじめに合うということは、私の身に起きたこととしては交通事故で足が切断されるレベルの被害である。障害者になった子供を邪魔者扱いする親から離れて生活出来るように、被害にあった時点である程度のサポートは保障して欲しい。お前が金欲しいだけじゃんと思うかもしれないが、受給者の人数や、使われている税金の額が視覚化すれば、流石の政治家もこれはどう対策するか少しは頭をひねる気になるだろうと思うのだ。金という数字でないとこの不登校の人数を数えたところで政治家は気に留めないのだ。

 

その上でいじめの加害者は犯罪者予備軍として人口が少ない場所にでも収容して隔離すればいいのである。いじめの加害者なんて親ガチャを外しているような存在ばかりなので家族から離しても損はない。わざわざ人に攻撃する理由なんて家庭環境が荒れているからであるという人間は少なくないだろう。どうせその場にいさせても被害者を増やし、野放しにしていればパワハラをして社会人を食いつぶしたり子供を生んだら子供を虐待するようになる。被害者ばかり泣き寝入りさせてお金を払って場所を変えなきゃならない苦労を強いられた後で、やれ社会参加だ自立だと言われても、社会に対する安全や信頼を持てる理由を作ることは不可能である。

 

そもそも猿みたいな子供を大量に詰め込んだら単なる猿園になって荒れるのは当然だし、猿に道徳を語ったところでバナナの皮を投げつけて終わりである。そういうわけで集団で作業する行為はもっと年齢が上がった時に覚えて貰うとして、クラス制をやめたり通学する日数を減らしたりすればいいのである。道徳も図工も音楽も体育も部活動も廃止して、基本教科をソフトウェアにして配信すればいいのである。プログラミングを教えられる人材作りより教育ソフトウェア作った方が早いというのもあるだろう。

 

ここまですれば圧倒的教員不足もマシになることだろう。週休3日で自分が教えたいことを教えることに専念できるとなれば教員のモチベーションもよくなるかもしれない。余裕のある心地のいい大人が教師以外誰もいないという子供は私以外にもおそらくいると思うので、教師にはぜひゆとりのある生活をして欲しい。