発達障害を愛することのない人類

みんな私が嫌いだって言ってたって声が聞こえる。私もみんな大嫌い。誰にも会いたくない。私だけ好きになろうとしても苦しい。みんなは私がいない方が幸せ。教室にいたくない。学校に行きたくない。私はその瞬間にそれが出来なかったことを抱えて10年がすぎ、あと少しで20年が過ぎたことになっている。しかしその時の感情だけは鮮明に溢れかえってくる。

 

診断されるのが遅かった。わかった後も親が発達障害であることを見て見ぬふりをした。いや、そもそもあの親は世間しか見ていないからたとえ私の発達障害がすぐわかっても普通の人と同じであることしか求めなかっただろう。悪口を言われたと言っても幻聴だと言われなかったことにされた。私の大半はずっとなかったことにされてきたのだ。私は学校に殺され、親に殺された。親は脅して無理やり我慢させたことも忘れて、全部現実逃避ばかりしていた私の作り話ということにしていた。

 

いじめ被害に何も出来なかった親は日本にはたくさんいるだろうけど、いじめ被害を受けた子供をここまですべて子供のせいにして虐待して死体蹴りの如き言動をする私の母のような存在は少数なのかもしれない。

 

私は愛されなかった。発達障害だから。発達障害だからいじめられても誰も助けてくれない。親がつけた中性的な名前をオカマだと馬鹿にすることから始まったいじめも全部私のせいにされる。そんなに普通の子になって欲しいなら普通の名前をつければよかったのに。私はもう嫌なんだ。人なんて大嫌いなんだ。みんな私が嫌いで、私もみんなが大嫌いで、私も私のすべてが大っ嫌いだ。

 

料理している時も、勉強している時も、ずっとずっと子供の頃の声が再生され続けている。私はもう疲れた。静かな場所にいたい。誰の声も、自分の頭の声も聞こえない場所にいたい。そんな場所、一体どこにあるのだろう。

 

私が死んでいるというのはおそらく冗談ではないのだ。長年連れ添っている夫が私の行動を演技っぽいとかよそよそしいというのである。きっと私は1人の人間として成り立つには何か殺されてしまった部分にあったものが必要なのだろう。