記憶という暴力

人より怒りの記憶が残りやすく、あらゆる出来事をトリガーにフラッシュバックして激しくキレるようになった。こんなことを言うと私とは極力関わりたくないと思うだろう。しかし私自身もキレるまでに掛かる時間の間に記憶の濁流に飲まれ、手足が震えて立てなくなるようになったりするので私自身も非常に苦しい。私は切実に誰にも会いたくないし関わりたくないと思っている。

 

しかしこの感覚は万人は知ることではなく、ゆえに話しかける人間の無自覚な暴力性すべてにも怒りがおさまらない。道を譲って礼を言われただけでも、悪気のなくむしろ善意からであろう行為にも憎しみを抱き、憎しみを抱かねばならない悲しみに胸を締め付けられている。

 

こんな状態にあっても、監視社会で普通を求められることには変わらず、私はどうあっても非常に肩身が狭い。みな私より記憶が残らない前提の世界で振る舞いをしているが、もう私には人の情報そのものがあまりにも暴力的で支配的なので、正直どう生きていけばいいのか全くもう考えようもない。荷物の受け取りすら恐ろしくなるほどである。彼らは自分の数秒の言葉が何年間も人の秩序を奪うことを知らないでいる。だから私は人がどうしようもなく怖い。

 

親から普通の人間であることを、いじめの被害にあっていた瞬間にさえ押し付けられていたのが強烈なトラウマで、私はもう人からの目も声も採点されているようで恐ろしいのだ。夫曰く猫を被るのが面倒くさいんだろうと言われるが、私は一度も上手に猫を被れた感覚がしない。家族が求めていたのは血統書付きのペルシャ猫のような人から求められるべくして生まれたような子供であって、ただ偶然生まれたような私のような存在ではないのである。隠れキリシタンの末裔という点ではあるいみ浮世から離れて隠れ潜むことが約束されたようなものなのかもしれない。

 

しかし日本の社会はそれを許してはくれない。標準的で平均的で、人と繋がっていないと存在そのものが間違っていると言いだけなのだ。私はもうスケープゴートには戻りたくない。そしてこれ以上ゴミ屋敷のように記憶が溜まって寝る場所もないような自分の脳みそに人の情報を入れたくはないのだ。