褒められたいけど一人になりたい

無償、タダで、何もしなくても、褒められたい!ということをふと思う。問題は褒められたところで無償であると感じる相手が夫以外に誰もいないことだ。

 

元気になるとか明るくなるとかそういう見返りを期待されることに疲れ果ててしまったから、言葉には癒やしを感じ取れない。人と会うことそのものが暴力であるというのを何処かで見たが、私の人生の価値観そのもののような言葉である。人と関わりたくないと言う自分も褒められたいという自分も、褒め言葉にプレッシャーを感じた自分もいる中で多数決を取るといつも人と会いたくない自分が勝る。トラウマになって何度も反芻するリスクと一言の褒め言葉では釣り合いが取れないのだと。

 

人が望むような社交的な人間になることを望む人たちは、人と関わりたい自分という存在を贔屓するけれど、大部分の自分は人と関わってトラウマを背負ったことで山のように出来た困り事を処理したり、怒ったり、泣いたり、悩んだり、諦めたり、逃げたりしながら今も未処理のごみのように溜まった出来事の数々に悩んでいる。脳天気な馬鹿一人にこれ以上振り回されていられるかと怒るのは当然なのに、一般論としてはそれを認知の歪みだとか、過去をひきずるのが悪いとか言い出すのだ。言ってる奴ら全員を骨折させて無理やり走らせてやりたいものだ。

 

あらゆる時代の怒りや悲しみを背負った自分が、これ以上自分の中に記憶を増やすのをやめろという。生活のために動いている人たちも、ただでさえ人よりできないことばかりなのに何かが起きて自分たちまで動けなくなったら死んでしまうという。裏切られた自分たちが、ここまで自分たちを犠牲にしてもわからないのか、もう人に近寄ることを避けろという。わたしのなかはいつだって暴動一歩手前だ。だから人と関わることを避けなくてはならない。