友達を作らなきゃいけないという環境の中で

私はまるでテストで100点を取らないといけない子供のように、母から友達を作って欲しいと酷く期待されていた。母の世間体を気にするので、私は友達と遊んだ日には怒られて泣いたり、夜中に外へと追い出されたりしていた。怖くなって私は外に遊びに行きたくなくなったが、母は友達と遊ぶことを期待した。

 

夜中に追い出された子供である私は友達の母親に保護され、私の母に連絡しては迎えに来て家に連れ戻されるということを何度かした。世間体ありきで動く母は私に冷たく、私は一人で泣いていた。私にとって友達とは身の安全の為に必要な存在になった。裏で憎しみと罪悪感を持ちながら過ごしていた。友達に嫌われると母から嫌われてしまうので、激しい執着も抱えた。その執着で友達に避けられるようになってからは、友達の母が私を避けていると母に伝えてくれたおかげで、母が一緒に遊ばせることを強制しなくなったので平和になった。

 

しかし母の友達と過ごして欲しいという考えは変わらなかった。転校先でも母は学校で友達と遊んだという感想がないと気に食わないようだった。私は名前を馬鹿にされて転入初日から失敗していた。ちっとも学校に行きたくなかったけど、母が家を追い出す時のように脅すから無理に学校に行った。その未解決の恐怖心は今でも人を前に発露してしまう。

 

それは高校生くらいになっても変わらなかった。母は友達といるときの笑顔が本物の笑顔なんだよと言った。私は家でも笑っていたし、楽しいことだってあったはずなのに、母はそれを偽物の笑顔だと言った。私は自分の在り方を否定されたのだ。

 

そんな風に、誰かのために自分がないがしろにされるようなことをされているうちに、私は取返しのつかないほどたくさんの病気を抱えた。人という存在が生々しく暴力的に記憶に残る構造なのだと自分を知ってからは、人と関わることを押し付けた母がどうしようもなく憎いのだ。

 

精神疾患の私を母は憎み煙たがっていた。何もかもが私のせいだというのだ。私一人であることを何一つ許しはしなかったのに、私の母は責任だけは一人の人間分だけ持たせようとした。私は一人の人間として責任を抱えるほどの尊厳は何一つ残されていなかった。世間体という花壇の中で雑草を引き抜いたように根も葉も千切られ虫に食われてもい放置され枯草になったのが私の存在なのだ。今更枯草に花が咲かないと嘆いて何になるというのだろう。

 

家から逃げるように結婚した私は、そこから数年の時を得て友達が0人になった。それから思ったのだが、きっと他の人たちは友達といるのはただ楽しいからだとか、話が合うからくらいのもので、きっと私のように他人に言われて仕方なくなんていうのは少数派なのだろうと思う。最後に絶縁した相手も、借金をしても人に奢るのをやめられない人だった。母の監視もなくなり本を読むようになって、人と関われば関わるほどそれが痛みになってしまうような、そういう構造の人間が自分なのだとわかった。

 

友達が0人になってから、さらに時間は過ぎた。最近になって夢を持っているキャラクターの話を見た。私もこのキャラクターのような夢を持てたらよかったのにと、もっと誰の名前も声も知らないでいられたら、私はもっと自由に夢が見れたのかもしれない。私はそんなトラウマによる反応ばかりの自分の身を抱えながら思うのだ。怯えていた私は人と会わなくていいように閉じ込められたいと願ってしまった。私は治るという前にずっと昔から、子供らしい子供ではなくなっていたのかもしれない。