親ガチャという単語では親に悩んでいる人をまとめられないし現代に救いはない話

毒親とか親ガチャという言葉に肯定的な人間もいれば否定的な人間もいる。親ガチャの当たりというのは優しいとか、お金があるとか、住んでいる場所が良いとか条件が山の頂点のようにわかりやすいものだが、毒親は親ガチャの外れ側は樹海のように混沌としていて、上から森を見ても地面が見えないように内情が不明になりがちだ。だから親ガチャ外れ派は山の反対側にいる外れの側を見ることは出来ないし、当たり側も上から見たら有象無象の木にしか見えない。

ネグレクトを受けた人間と過干渉を受けた人間では親に求める距離感は別の物になるだろう。言葉でも物理的にでも暴力があれば脳は変異することが明かされている。性暴力ともあれば人が想像も出来ないような心身の状態へと人を変えてしまう。私は親から虐待を受けているとは自覚をしているがとても暴力を負った人たちを知った気やわかった気になれない。それほど脳や神経への影響が大きいものであるようなのだ。

受験に漬けられた人間であれば成果が伴えば親が間違っていたと否定することもせず、親への感謝の言葉さえ述るかもしれない。その人が大人になって子を育てれば子供にも同じことをしてしまうかもしれない。成果が伴わなかった人も子供に自分の代わりを求めるかもしれない。

これが宗教の勧誘に連れまわされるともなると宗教独特の孤立した価値観や奪われた時間などに怒りを抱えるかもしれない。宗教という存在を子供に押し付けなくなったにしても、可視化されている行為は避けられても無自覚に思想だけは宗教に染まったままで、子供も孤立した価値観に悩んでしまうかもしれない。

私たちは虐待や毒親、親ガチャという言葉で格差に気づきながら細かな違いには目が行かないし、人それぞれと言っては自分と違うものを見て見ぬふりをするに留めがちだ。必要な情報を取捨選択をすることは大切だが、足りない説明で誤解を招いてしまうこともあまりよくないなと思う。

ただ親ガチャは甘えというには、親という存在が与える障害の多さがお金があったり少し病院に行ったり気の持ちようでどうにかなると思っている人たちの知識不足は見ていて呆れてしまう。道徳の教科書で人を分かった気になっている国のせいでもあるので個人を責めるのも仕方ないのだが、反ワクチン派の雑な療法や自然派を馬鹿にするような権限がないほど無知であることを人を責める都度に自慢してくるのでとてつもなく格好悪いのだ。こんなだから嫌われる勇気なんてものがベストセラーになる。

 

正直何もわかりやしないのであれば黙って金をくれと言いたい。口ではなく金が欲しい。療養の機会は場所と金が物を言う世界だ。病院というものが親からの虐待で困っている人間に出来ることなんて限られている。必要とされる療法は自由診療という名前ですべて1万円を超え、その治療の期間も未知数だ。確実に治るかさえわからない。精神疾患で働けない人間がその金をどうやって出すのか。働けばいいって?フラッシュバックでパニックになってその場に倒れ込む人間を受け入れる人間はいない。そんなの当然だろって思うだろう。他の人間だってそうだ。

頑張っていればどうにかなる場所なんて存在しない。それは発達障害精神疾患の人を受け入れる場所も同じだった。理解のある場所なんて存在しない。働けるくらいの能力のある人がクローズにして働くのは賃金の話ももちろんあるが社会が隔離用に作っている居場所という存在はその場へ行けば攻撃的な態度が襲ってくる。就労移行支援で受けたのは無賃金のモラハラだった。私は働きたいのであって通う場所を作りたいのであって精神病を悪化させにきたわけではない。

病院で相性のいいカウンセラーを探す気力というものが虐待されていた人間にどこまであるのかというものも非常に大きい格差になっている。親と住んでいる場合は親からも許可がいる。親が病院に否定的だったらそこで終わり。医者がキチガイで甘えですとか言い出したら行けても終わり。本当にこういう医者はいる。まさにガチャ地獄。

私の場合は医者やカウンセラーに逆切れされたり貴方は変わらないからやめると匙を投げられたり怒鳴られたりして、話を聞いてくれるというカウンセラーの謳い文句に騙されている。過去にいった病院のレビューなんて医者が一番病んでると言われている始末だ。看護師からプライベートでは絶対に関わりたくないって相談して返されるような医者だった。そういう出来事がある度に、私の助けを求めるという社会が求める弱者の理想的な行動が失敗する度に、都度親からは話を聞いてもらったのに失礼と死体蹴りをされる。どこに甘えるチャンスがあったのか私にもわからない。努力ってなんだ?何したら正解だったんだ?

転院して恐ろしいことのない病院にはいるが、10年ずっと通い続けていても私は結局社会でいう普通の人からは到底遠い存在であり、今は家で落ち着いて暮らすことが目標になる状態でいる。家にいてさえフラッシュバックやトラウマの反芻が起こるからだ。社会に出ようとして行った就労移行支援も、医師やカウンセラーの記憶も私をより追い詰めるだけだった。何処に行ったら私は外で理不尽な悪意がない通える場所が持てたんだろう。

そういうことで仕方なく治療法を探して本を読む。日本人大好き自助、努力だ。そうすると今度は専門家がいた方がいいと大体忠告がつく。1万円くらいする場所も限られていつ終わるかわからないものをまた勧められる。食事や筋トレなんて健常者の嗜みで解決するような場所にすべての人間がいるわけではない。食事や運動がトラウマに絡んでいればそうした行為がトリガーになる。練習すればどうにかならなかった。散歩程度では記憶が侵食してくる。木がありますとか考えればだけど私はいらない存在ですっていうのが頭に再生される。自罰的でも他罰的でもあって、自分の中に怒りが蔓延していて、取り返しがつかない場所にいる。

しかしとりあえずやろうとすれば自分に意識をした影響で自傷行為のトリガーがついてしまう。タッピングをすると身体を叩くのが止まらない。自分を褒める言葉を1つ浮かべると3つくらいの罵声と記憶の想起も止まらない。トラウマに触れるという行為が骨折した足を動かすような無茶を伴っている。誰か親ガチャは甘えという前に甘えるチャンスを作ってください。ガチャというなら引き直すチャンスをください。リセマラさせてください。回さない選択肢をください。天井のないガチャなんて無課金でも課金できても私はやりたくありません。私に安全基地がある人間の脳と神経をください。お金ください。という風にしかなりようがない。他の解決方法も探して本を読んだけど別の本も金、なんか高いセミナーとかとりあえず金、こんな食費さえ上がってきたのにそんな金?自由診療のものを保険適用できるようにするのでもいい。努力や我慢を求める前に悲劇のヒロインぶるなという前に現実的な解決方法があるかどうかを考えて欲しい。正直もう八方塞がり、今の時代がどうにか出来る問題ではないのだと諦めつつある。トラウマを治療行為中にも重ねてきてもうどう手を付ければいいかわからない。怒りと恐怖が強すぎて本当にストレスに昔よりどんどん弱くなってきている。自分が爆弾のようで恐ろしい。もう何もかも無理だ。人に助けを求めた方がいいなんて信じたことが間違いだったのかもしれない。人と関わることそのものが間違いだった。能力のない人が産まれても救われる方法がない。私ってなんで生まれてしまったんだろう。