どうしても発達障害をなかったことにしたい人々

発達障害は単なる言い分けで、ただ努力の問題だという人がいる。底なし沼の上に建物を建てようと言い出すのと同レベルの発言をする人はなぜこんなに多いのだろう。

 

私は思う。努力だけはしてきたし、我慢もして、人並みに生きている体だけは繕っている。そんな人間にとってはよもや努力と我慢しか取り柄がない。そんな平凡で取り柄がない存在が、何かを見下したいと願った末路が自分の努力を賞賛することであり、誰かを努力していないと断定することだったのではないかと思うのだ。自分が結果を出すより誰かを貶める方がよっぽど簡単なのである。

 

努力をしてるかしてないかでしか物を見ることが出来ない人生で自らも裁くが故に、まるで回し車を走り続けるような人生のうっぷん晴らしに発達障害者を利用してるだけの粗暴な輩なのではないかと。こうして書いていると今の自己肯定感を持つことを急かす風潮はあまりよくないのかもしれない。

 

きっとこれを読んだ者の中には、勝手に人を決めつけるなということだろう。しかし発達障害者は努力をしていないと決めつけてる者達がその発言をする資格は本当にあるのだろうか。私は発達障害者をスケープゴートとして利用してきたような存在が、いかにも自分は人に迷惑を掛けず謙虚に努力している自分と違って努力してないこいつらはずるい奴だとか思っていそうなことが気に食わないのだ。

 

常に急いているだけ、きっと今まであらゆる人間を邪魔だと、鬱陶しいと、足手まといだと、いなくなって欲しいだと願ったのだろう。どうしてそう思っている奴らがよりにもよって発達障害は存在しないと、努力すればいいと言うのだ。そういう言葉を真に受けた人間に振り回されて発達障害者でも大人たちに普通級に入れられたりして、最終的に苦しむ羽目になるのは発達障害のある本人もだが発達障害を邪魔だと言っていたお前たちだって苦しむだろう。

 

そんなに普通なのが偉いのか?偉いなら偉いなりにもっと堂々と傲慢でいて欲しい。会社で発達障害の世話なんてしたくないし、子供と同じ教室に発達障害者を入れられたくないってはっきり言ってくれ。お前らが謙虚で善良なふりをするせいで、発達障害の人が受け入れられるって思い込む馬鹿な大人が増えてしまう。馬鹿にははっきり言わないとわからないのだ。善良な人間のふりをして隠れて性犯罪重ねて犠牲者を増やすような犯罪者よりは、春先に現れる露出狂の方がなんかマシな気がしてくるだろう。そんな目くそ鼻くそのような違いで何が救いになるんだという話だが、そんなことを思うほどには発達障害者を持って生まれるということは、人から嫌われるということなのだ。

 

晩婚化もあって発達障害はきっと増えていくことだろう。発達障害者にあった生き方を目指さなくてはならない。単なる押し付けを助け合いだと履き違えたものたちが、発達障害者に精神疾患を増やすことを止めるには、まず発達障害というものがある前提の土俵に立たなくてはならないのだ。だから発達障害はないという話はやめて欲しい。そして発達障害及び発達性トラウマ、複雑性PTSDなどを周知させ、それらの存在にとっての環境というのを改めて考える必要がある。

 

少なくとも私は、会いたくなかった。きっと親含めて私に会ってきた人たちも私に会いたくなかったって思っているだろう。私はみんなが加害者だと思っているが、きっと私の足手まといぶりで加害者だと周りの人は私のことを思っていることだろう。

 

私はいじめから助けて貰えなかった。名前から始まったいじめに対しても。人並みに生まれないことで私は親から愛されなかった私は助けられなかった。家庭においても発達障害である私には居場所がなかった。母はいつまでも友達がいる子供であることを望んだが、末路を言うと人の存在がフラッシュバックのトリガーになるようになった。精神疾患が増えた今、これが発達障害なのか複雑性PTSDなのかはあやふやになりつつあるが、人といればいるほど崩壊してしまう人間というものは存在するのだ。だからまずは発達障害の存在や精神疾患の存在を疑うことを終わらせなくてはならないのだ。