トラウマ持ちはオタクするのも生きるのも難しい

学校でいじめに合ってから騒ぎ声や笑い声が無理になった。今流行りのなんたらTuber系統を私は見ることが出来ない。声優が演技している瞬間の声以外が怖いので声優がわちゃわちゃしている声を聴くことも難しい。学園系が苦手になった。これがオタクとして探るべきコンテンツをごっそりと減らしている。精神疾患で働けないとなると、オフィス系のジャンルもピンとこない。

 

そういうわけでファンタジー寄りの作品を見た方がいいのだが、シナリオにも想像以上に違和感を感じる。トラウマが応じたことによる強烈な絶望や無力感は、あまりに友情努力勝利にはほど遠かった。奈須きのこの話が途中までは理解出来るけど着地地点に大体追いつけない。西尾維新の精神的な耐久性が理解できない。大人になれなかったせいで出来た大人になる前提で作られるポケモンのシナリオが辛くて耐えられない。シナリオがあることそのものが地雷というほど、あらゆる言葉が生傷に塩を塗られるようなものだった。今の私はただシナリオを読まずにひたすら周回をすることしか出来ない。

 

私の頭の中には二次元のキャラクターが常にいる状態がキープされる必要がある。そうでないとフラッシュバックやら反芻やらの隙が増えてしまうからだ。他の趣味をやろうとしたこともあったが、自分という無力の塊の身体を使う行為はあらゆる恐怖を思い起こさせた。私は私を見ることも感じることもあってはならない。物語に感じる違和感でスケープゴートとして世界から食い殺されてきた骨しかないような身体に私が一生縛られていることを思い出すようなことがあってはならない。自由な傍観者の亡霊のようでいないとまた動けなくなってしまう。私は読み手以外の何物にもなれない。

 

二次元に思いを馳せていないと、子供の頃からずっとあり続ける悲鳴が聞こえ続けてしまう。誰も助けてくれなかった。みんなが私を嫌い。怖い。そういう言葉が、そういう世界が自分の世界であることを私にはどうすることも出来なかった。ただその時に本当に大変なことにならないようにすることに必死だった。父に怯えながらで他が疎かになって、その不出来さで人から嫌われ、誰にも愛されることもなかった。

 

今更他の生き方が選べるわけでもない。なぜなら三次元に生きる上で必要なものはとっくの昔に世界に壊されてしまったからだ。人間の数だけ自分の価値を貶められると知った後で、人に怯えない方法が私にはわからないのだ。人のせいにするなと人はいうが、何もかもが私のせいにされてきたのに、今更どうその道理を通そうというのだろうか。貧しい人間の為にパンを配った信徒の飢え死んだ子供が私なのだ。人々が美徳と語る我慢や、他者の幸福を望むことの後遺症がずっとまとわりついてくる。人々が救いだとするもので自らのすべてが削がれていく。

 

今もここに文字を書き殴るしか出来ない。医師にもこんなことを話せるわけではない。ただ治療のやる気がない人間だと嫌われるだけなのが目に見えているからだ。人に話してよかったことなど一つもない。こうして吐き出した後、私は何の作品を詰め込めばいいのだろうか。