家を見て見ぬふりをして暮らす

今週のお題「何して遊ぶ?」

夫が家の掃除に興味が湧いたようでGWを家の片付けに費やす覚悟のようである。今まで散らかった家をお互いさほど気にしてなかったのだが、この連休は大掃除に溶けることになりそうだ。

 

私の大掃除に対するモチベーションは著しく低い。昨日洗面所を掃除していて、私は築年数がある今の住居をあまり愛せていないのだと感じる。凹みのある食べ物にも例えることの出来ない黄ばんだ色の不格好な洗面台を見ていて、なぜ私はこんなものを真面目に視界に入れる必要があるのだろうと思った。

 

掃除というのはゴールを目指してやるものだと思うが、私の目指したい空間のゴールにこんな洗面台があるわけないのだ。私はありもしない自室に置きたいものを並べる夢想できても、生活感のある空間のイメージは虚しいほど出来ていない。どうぶつの森でさえ屋外ばかり触り屋内にはまともに手を出していないのだ。

 

私はこの昭和なデザインの家がどうしたら好きになれるのか全くわからない。キッチンも例えがたい緑色をしているし、磁石がくっつかないタイルの風呂はただ汚くて洗うのに不便で、水滴を落とす習慣を作ろうとしたけどタイルの凹みに来る度に水が飛んでくるのが不快でやめた。シャワーの部分にラックを付けてボトルを地面に置かない工夫をするので限界である。

 

雑誌を読んでも人生がそれなりに上手く行ったなりに綺麗なフローリングの部屋に住んでる人の、収納インフラに金を掛ける前提があるものだし、築年数で検索してもリフォームした事例ばかり出てくるし、活かしてる事例もあるが見ていてあまり楽しくなれない。根本的に興味がないのかもしれない。

 

私は画面の中と脳内にある二次元の思い出に浸る以外は、穏やかな心境でいる方法がわからないので、生活の消耗品の在庫とスマホの場所以外は家の中に興味が持てない。主婦なのに悲しいほど掃除に興味が持てない。専業主婦だから金がなくて古い家に住まねばならないし、専業主婦だからキッチンや洗面台の色なんて見つめてなきゃならない悪循環である。

 

私は家の中を掃除のために見つめていれば見つめているほど自分の人生がどこか壊れてしまったことを思い出す。家を見つめても鬱屈とするが、トラウマケアの名目で自分の身体に触れようとしたときも自分への怒りで失敗したことを思い出す。私は驚くほど現実を目にすることに耐えられないのだ。自分を見ることが自分が人から受けた仕打ちそのものを思い出して危険を感じることが止まらなくなるのである。危険を感じる反応がついてしまった限り、私は何も手の出しようがないのだ。

 

とはいえ今の住まいは値段と土地面積のコスパがふと賃貸のサイトを何度か見ている上では高品質なので、人並みにお金があってもこの物件を選んでいた可能性がある。そう思うとやはり掃除なんかせずになるべく毎日画面の中だけ見て暮らすのがいいのだろう。