つまらない女

今週のお題「投げたいもの・打ちたいもの」

夫にとっては私はつまらないらしい。新しい刺激を求めず、今までと同じなのがいいと思っている私はつまらないのだと。私はあらゆる作品から作品へと自分の中で流行っているものが移り変わっている実感はあるし、一日に小麦も米も食べて、季節で旬の食べ物が変わるだけで変化があるという認識なのだが、その程度の変化で満足していることがつまらないそうだ。

 

肩身狭く、変化のあるふりをしようとするけれど、普段と違う原産地のココアよりも、普段飲むのコクのあるココアの方が美味しく感じるし、パクチーは臭くて他の味が何もわからなくなるほど強烈な味がするから美味しくないし、ニョクマムは臭くて、どうにも好きになれないでいる。他の国の料理をとやろうとしても、チーズは食べるとニキビが出来てしまうし、唐辛子を食べた私はどうにも怒りっぽくなってしまう。スパイスも酷い頭痛に襲われてしまう。私は食べられるものが少ない。人にとって幸福な変化が私には幸福ではなくて、また現実にこそうんざりする。唯一何も問題なかった料理はすっかり献立の常連になったが、どうやら夫は飽きているようである。

 

私は人より早く現実世界のことを諦めていたように思う。心の中のどこかでそこに居場所があるという希望を捨てていた。それが親が自分よりも大切な存在がいるからとか、家を追い出されて家に心を落ち着けて居られなかったとか、引っ越しで誰といてもどのみち離れてしまうこととか、陰口を聞いて自分といない方が相手は幸福であると思ったからだとか、思春期にも入っていない子供の頃から、いろいろな理由があった。

 

そのせいか私はどうにも現実では人より物事を好きになることが難しく、そのことで人に異物のように思われて嫌われてしまうのである。数少ない好きの共通点で会話が出来る相手としかまともにやりとり出来たことがない。そんなものなので、創作物を見なくなった夫とは国際ニュースの話題をするが、夫にとって国際ニュースの話にしか興味が持てない私は単なる我儘な異物のように映るようになってきたようだ。夫はヨーロッパの料理なんて飽きたというが、私は他の地域の料理ではパクチーが入っていて食べられないかもしれないという不安がつきまとう。

 

これでは埒が明かないと食べ物以外に興味を持とうとしたが、知識を得れば得るほどとくに好きというほどではないという感想ばかりを持ってしまう。文字は模様のように見えて脳みそが文字として受け取ってくれないし、民族衣装を可愛いと思えず、その場所の細かな人の営みに興味が持てない。家族が見ていたダーツの旅で一般人がただ喋っているだけなのを見て何が楽しいのだろうと別の部屋で違う番組を見ていたことを思い出す。

 

今を投げ出して、夫が二次元の創作物に飽きる前の時代に戻りたい。考察の話をして盛り上がっていた頃が懐かしい。今ではどうせ作り話だからどうでもいいと言われてしまうのだ。あるいは夫といる時間は会話用にAIを入れて勝手に私の身体が夫の理想通りの返答をして、相槌を打って、微笑んでいて欲しい。

 

細やかなミスと細やかな馬鹿という言葉でこんなにダメージを受けるほど自分の中で余裕がなくなっていく。私は現実で何かを好きになる能力が酷く欠落している。ただ怒られて、責められて、恐怖の中で普通という針に自分という綻びだらけの糸を通すように意識しなくてはならず、自分という糸が解れて糸として成立しなくなっていくことを実感するたびに、私は生命的な危機感を抱いている。そんな状況のまま、私は現実世界の何を私は喜べばいいのだろう。

 

こうしてキーボードを打っている間にも夫が帰ってくる時間が来るが、私はどうしたら夫の好きなものに興味を持てるのだろう。どの国のどの山にどの民族が住んでいるかなんて私にとっては知ったことではないのだ。誰かによって作られた人に見せるための作品ではなく、ニュースでもないのに、興味を持つ方法なんて、ちっともわからないのだ。