記憶を投げ出せたらいいのに

今週のお題「投げたいもの・打ちたいもの」

思い悩んで本を読んでいたが、私はまた読書に挫折していた。医師にそれを話したら本を読まなくてもいいと言っていた。大半の人はそもそも読まないものではあるらしい。私は私を論破することが出来ないのである。自分のことを悩んで延々と文字を繋げても、私は私のこの世界は安全ではないし自分は誰からも大切にされないし人の存在が私を追い詰める材料になるということに対してひとつの論破も出来ないのだ。

 

小さな頃に家を追い出されたり父が豹変してキレる存在であったことによる見捨てられ不安、長年続いた学校でのいじめ、助けてくれなかった大人達、味方のふりをして背後から刺すようなカウンセラーや福祉の人々、そしてあらゆる傷を抉り骨を折るかのような非道な仕打ちを続けた母の存在が、私の存在の中で安全と言う概念を完全に奪い去ってしまったのだ。

 

恐怖と怒りで気が動転した私を人々は見下し飽きれ、叱ったり怒鳴ったり嫌悪するのである。だから私は過去にも現在にもどこにだって安全なんて存在したことがないのだ。そんな恐怖の感覚に支配された身体は不調を増やしていく。私はもう現実世界を目に映さぬようにすることでしか気が狂っていないふりをすることが出来ないのだ。やることを極力そぎ落とし、関わる人間の数を減らし、年相応の責任のほとんどを投げ出してもなお、私の身体は危険というものを忘れてはくれないのである。

 

私は常に妄想の中に、夢の中にいなくてはならないのだ。それがいかに大人とは思えぬほど情けなかろうと、私は現実世界で生きようなどと考えてはならないのだ。現実で年相応の自分にならなければと願うたびに、私はまたあの虐げられた私に、人への恐怖と攻撃性しか残っていない自分に戻ってしまう。すべての記憶がなくなれば、私はこんなに苦しまなくて済むのだろうか。