本は欲しいが知識を活用するとは言ってない

最近PMDDで生活の地獄絵図ぶりが増している。コロナは蔓延し病院に行くのはかなり危険な状況だが、いざ抜いてみるとピルなしには生きられない身体だとわかった。血栓症のリスクが上がる年齢までは、当分飲み続けることになるのだろう。ミレーナにしようと思っていたのも厳しいかもしれない。

 

どうにかしなければという荒波の中に常にいるような状態の時と、どうにもならないと脱力している時があるが、どうにかしなければと思う時は突然に本が欲しくなる。本だってタダではないので毎度買うのに半年以上は悩む。そして最終的に専門医の力を借りようとか、療法を行おうとすれば自傷が始まることに絶望するのである。図書館にさえコロナで行くことを渋るので、なかなか読む機会がない。

 

発達性トラウマやDSOという症状が当てはまるような状態にはなっているが、治療法を読んでいるだけで自分に死ねっていうのが胸の中から発生して止まらなくなるというような状態で解決方法がわからなくてとても困っている。

 

よく見かける今、ここという単語を見るだけで「今ここにいるお前は何も出来ない駄目で最低な奴だ死んだ方がいい」って胸の中に響く。別に声には聞こえずそんな言葉が浮かびだす。他の存在を意識すると「それに比べてお前にはなんて価値がないんだ死んだ方がいい」という。自分に意識しても他の物を意識するよう呼び掛けても駄目なのだ。運動も自分との対話という発言があるだけあって自分を殴りたい衝動が強くて手を付けられない。自分への攻撃性が止まらない。もう止める為に死ぬしかないんじゃないかって思う。自分に向き合うという行為そのものが逆鱗に触れると言ってもいいような状態になっている。

 

思えばこの言葉達は周りの人から受けてきた自分への対応を言葉にしたものであると思う。私はよもや私に触れる私という存在まで消えてしまっているのではないだろうか。トラウマに巻き込まれていないニュートラルな自分の部分というか、人格が複数あった場合のリーダーのような立ち位置の人が私の中には存在していないのではと思う。あまりにもトラウマの部分が中心で、出会ったら殺されるしかないくらい、自分の中でトラウマは大きすぎてどうにもならない。だから意識せず日常に溶け込むような行動を探さなければならない。そのためにポリヴェーガル理論とか東洋医学とかもっと範囲を広げたいのだがやはり実行するお金のなさに悩む。

 

今日のブログは文章を頻繁に改行するのをやめてみている。なんでも改行が多いとスマホで読みにくくなるそうだ。そうはいっても記憶の反芻の吐き出しところに読みがいもへったくれもないといえばそうである。