ヤンキーは身内以外を人だと思っていない

私をいじめてきた奴の主犯は赤い眼鏡をしてきたヤンキー女であり、せっかく今日はインターネットのニュースを避けたのにそれが日常会話でフラッシュバックをして最悪な気分である。ヤンキーという奴らは身内以外は虐げるような奴らで、不登校にした人数を自慢するような下衆であった。向こうから干渉してくるのがなにより最悪だった。少なくとも相模原にいたヤンキーとはそういうもので、横浜線に乗ると人が多い東京にいるときよりも何故か汚らしい笑い声が聞こえる回数が多いのである。創作物にあるクールで誰も近寄らせない一匹狼のようなヤンキーと集団でつるんでリンチするようなヤンキーが作品で描写されることがあるが、相模原にいるヤンキーは大体後者であった。

 

ヤンキーというのは人で暇を潰すことしか知らないような愚かな奴らであり、身内以外ともなれば大半の人間を人とも思っていないのである。戦争で拷問しまくっている奴らと過激さが違うだけで同じような存在に私には見える。こんな奴らがいる学校に通わなくてはいけなかったようにしてきた日本国憲法を私は真面目に憎んでいるし、タリバンでさえ小学校くらいは学校に通わせることに絶望を覚える。私のいじめは小学校から始まったから、それだと私は助からない。世の中となぜか逆の絶望を覚えているのだ。アフガニスタンは学校に行かないことで未来がなくなる悲しみを背負っているが、私は日本の学校に行く権利も義務も自分の命を危険に晒したものだから、そういう価値観になってしまう。私は日本の学校に行くことで未来を失ってしまった。自分の未来とか夢というものは子供の頃にはすでになくなってしまった。

 

そんなトラウマがあり、私は手を叩いて笑う女に嫌悪感が湧くし、声がデカい女も駄目だし、そもそも女の喋る声そのものが随分駄目になってしまった。どうしてこの人たちは私に関わってきたんだろう。好きでもないし身内でもないなら関わらないでくれたらよかったのに。

 

その反面、身内に優しく外部に人の心がないのが一体何が悪いのかとも思ってしまう。身内に冷たくて外面はいい毒親なんぞよりずっと価値観は理解出来る分だけマシだと思ってしまう。母親がキチガイすぎて私はいじめの加害者相手にさえ怒りの消化が凄く後回しになってしまっている。母親があまりに糞すぎる。一秒でも早く自分の母が死なないかな。母によって学校に無理やり通わされたことで自分を守る権利が奪われたので、私は最終的に母に殺されたのだと思っている。私は母への怒りだけで凄く精一杯に力を使うことになってしまっている。いじめも魂の殺人だと思っているが、それに加担したも同然の母は人殺しなのだ。

 

どうしたら私は学校に行かない権利が貰えたんだろう。学校に行かない権利が欲しい。ただ安全に過ごしたいだけなのに、どうして人はそれを我儘とか他の人はもっと苦労しているとか言うのだろう。安全が欲しい。日常にも地雷があるのが怖い。学校に行きたくなかった。ただただ私は学校に行きたくなかった。