スポーツはいつだって居場所を奪う

スポーツ中継でアニメが潰れているのを見ると悲しくなる。私が子供の頃は野球のせいでゴールデンタイムのアニメが潰れてしまっていたから、その時の憎悪が湧いて出てくる。

 

地獄の食卓を和ませてくれたアニメ達

否定から入る母と茶化す父を前に食卓はいつも地獄だった。会話のある楽しい食卓がいいと言う母の期待も虚しく、私が出した話題はだいたい母の説教に至る。誰かの成功例は私への新たなノルマになり、誰かの失敗例はそれを指摘する私に対する人格否定になる。他人を前に私の人権は無であった。自分の壁を、自分の形を、他人を使ってどこまでも破壊してくる。そんな中で現実の人物ではないアニメの話題だけが食卓の希望だった。

 

それが現実の人物にすり替わってしまうのだから、悲しいことしかない。パソコンもスマホも使えないあの頃は子供が二次元に触れられる貴重な瞬間だった。それを妨害される夜はいつだって泣いていた。明日も自分を嫌う学校と、学校を嫌う私を嫌う家族を少しでも忘れていたかった。二次元という母から壊されることのない壁に少しでも身を隠していたかった。

 

見下ししかなかった世界

どうしてスポーツというものはこんなに傲慢なのだろうか。裏チャンネルなども存在するし配信もある時代に普段から存在した番組たちを押しのけてくる。

 

スポーツマンシップという言葉はあるが、スポーツをしている者たちは何故かスポーツをしてない奴らをいつだってないがしろにしてきて、一方的に否定してくるのだ。何もしてないのに日常を妨害して、見下してる奴らがなんか言ってるけど死んでほしいくらいにしか思っていないのだ。昔から思っているがどうしてスポーツをしている奴らはこんなに偉そうでかつ攻撃的なのだろう。関わってほしくないのに当たり屋のように向かってくる。どうしてそっとしておいてもらえないのだろう。どうしていつも踏みにじってくるのだろう。私はどうしたらスポーツと関わらないで生きていられたのだろう。スポーツを知ることなく大人になりたかった。