親が頼れないと人生終わり

拠り所のない人達の支援を語る場所で酷い犯罪で経営者が逮捕される事件があった。現代の日本にある宗教という場所に所属したところで虐げられるか搾取されるかの二択である。カルト宗教でなくてもそれは変わらない。せめて国や警察がまともに動いて虐待されている人間の安全を確保できるようになって欲しい。何度か刑務所に行ってからは落ち着いて暮らせているというほど酷い虐待を受けた人の話をニュースで見たのでそう思う。児童保護施設というのも、トラウマ関連の本を見ているうちに福祉関係者からの性虐待の供述を数件見たので不安だ。親が宛にならなくても他の大人を探せばいいと言う人もいるがあまりに絶望的に感じる。

 

愛着障害複雑性PTSDアダルトチルドレンを調べていると、回復の為に宗教を使うという話があるが、やはり宗教に頼るのは危険である。正確に言うと集団に属して信仰しようとする行為が危険なのだ。家で一人黙々と信仰すれば違うかもしれないが、効果も不明である。

 

今はもう閉山している炭鉱島の元地主の子孫だったと自称する母は教会で貰った聖書を何度も引っ越しても漫画を売り払っても今でも大切に持っている。その聖書に挟まっている手紙は母の虐待的な行動を推奨するような話だった。私がいじめに合っても理不尽な我慢を強いられて複雑性PTSDになったのは母のせいであるしキリスト教のせいなのだ。頭のおかしい母が好きなものだから私はキリスト教にはもう苦手意識しかない。

 

加害者を許して被害者を弾圧する乱暴を許す口実にするから嫌いなのだ。だから宗教をやっている親を持つと毎日が悪夢のように辛くなる。倫理もありやしない場所で宗教という色眼鏡を通してしか自分が見られないのだ。宗教というのは私にとって安全の場ではなくトラウマの場なのである。私はキリスト教の許しの教えのせいで過干渉の母から一挙一動、考え方から受け取り方まで何もかもが許されずに壊れてしまった。真っ当な怒りを常に内側へと押しつぶしてきた後遺症は人として生きるにはあまりにも重い。ルールという概念そのものにさえ恐怖を感じるようになりどこにもいられたものではない。

 

主観を抜きにすると日本という国自体が宗教に頼ったばっかりに税金を貰う予定だった高所得層が有象無象の宗教によって滅ぼされて税収が知らぬうちに減っていて増税せねばいけなくなっているのでそこを哀れに思う。日本人は宗教に寛容ではあるし、それは様々な国の人が日本と国交を結ぶにあたって長所に見られることかもしれないが、どの国よりも自分たちが宗教をすることには向いていない民族なのかもしれない。

 

あれやこれやと頭を巡らせているが、根本的に毎日自分の安全がわからないので相変わらず調子が悪い。この前通院して思ったのだが、人と関わっていれば癒えるというのは、私のような存在には当てはまらないのではないかと思いつつある。あらゆる言葉に自分を否定する要素をもう感じ取れずにはいられないし、そう感じてしまう自分を責めながら恐ろしいことがあったフラッシュバックをしなくてはならないので、医者と話すのも極力控えた方がいいのかもしれない。