毒親から生まれなきゃいけない世界で私に神はいない

統一教会の被害者である二世の方のインタビューに対して、統一教会の人々が彼女は精神疾患だから嘘を言っていると言っていた。私はこれと同じような言葉を母が言っていたことを思い出す。

 

加害者である母はいつも覚えていない

母は私に夢見勝ちだから私の虐待を嘘や妄想で作り上げたと言った。私は何年も前から父や夫に同じことしか伝えていないし、同じ話をした相手を何人か覚えていたりもするので改変はないのは事実である。夫が見た母の言動からしても発言に何ら矛盾もないようだ。

 

10年も前の話だけではなく、前回母が私に言ったことさえ母にとって都合の悪いことは私の作り話だと言い張る。母から少し恨みも混じったような祖母の話をしたことさえ母は私に話したことを忘れていた。家族は私をスケープゴートにしてゴミ箱のように扱ったが、母は私というゴミ箱に何を入れたかさえ忘れてしまったようだった。

 

母の一人芝居に振り回される日々

母は娘を愛している母だという建前を言うものの、私を怒らせた貴方が悪いという態度で全否定をすることがほとんどだった。母はカルト宗教には入っていなかったはずだ。長崎からのキリスト教徒のプロテスタントである話は母本人から聞いている。プロテスタントが親が子供を虐待する宗教なんて聞いたことがないのに、まるで聖典が子供の理想像でも書いていたかのように、カルト宗教二世の人達が描く虐待親の像であるかのように、私のすべてを否定し続けた。

 

母にとって優しい母自身と穏やかな娘以外はいないようで、私の苦しみや悲しみはすべてが否定された。外で起きた酷い出来事も気にしすぎや被害妄想などと言われてその日起きたことさえまるごとなかったことにされた。母は私に夢見がちと言ったが、私がどんな悪意を受けたかを伝えても信じようとしない母の方が、外の世界がお花畑に見えているようでぞっとした。

 

抉られた傷と治癒しない恐怖

私は毒親育ちの代償なのか、どこへ行っても二次被害を受けるスケープゴートになった。人と居れば悪意や罰が襲ってきて、それから逃れたり身を守ることが出来ないし、さらに誰かしらが不安定になってる私を責めて蜂の巣にされるということを子供の頃からよく知ってしまった。助けてくれる大人もいないなら、隙を作らないようにしなくてはならない。見つからないように息を殺して過ごすしかない。しかし外はハイエナのように虐げることを求める人ばかりだった。そうして無気力な私を責め立てる人間はいても、理不尽な悪意を止めてくれる人は誰もいなかった。悪意で接してくる人間のすべては私は話しかけたこともないのに突然八つ当たりのように私は悪意をぶつけられる。向こうから来るからそうならないように予防する方法はひきこもることしかわからない。

 

私は外に出ることを望めなくなった。危険だし怪我をしても回復しないことがわかっているから。私はこれ以上悪化をするのが怖かった。何もしない私が母から攻撃されないように家事は出来なきゃいけないのに。そう思うとこれ以上の悪化が怖かった。何か月も布団から出られなくなる人が、他人事ではなくて明日の自分はそうなっているかもしれないという危機感があった。

 

母は私に死んでほしいと本気で願っていた

そうして引きこもっている時に、母は呆れたように笑いながら物凄い暴言を吐いて、あ、これこそ余計な一言だったねって見下すように笑っていた。そばにいた兄弟も氷ついたような顔をしていたので、よほど酷いことを母は言ったのだろうし、私もそんなに酷いことを言われるほど母にとって私は無価値なのかというショックしか覚えていない。あまりにショックが酷いと逆に聞き取ったり思い出したりするような能力さえ閉ざされてしまうのだろうか。そんなことがあったので私は自分が作り話をしているなんて信じられない。もし出来るなら言葉が思い出せないことなんてないはずなのだ。

 

ただこれこそ余計な一言だったねの一言で、私の尊厳をふざけてないがしろにしても言いと思ったと言う母の私への自殺幇助的なあまりに悪辣な人格否定の意思、いわゆる殺意だけは覚えている。ただ何十回も包丁で刺してないだけで、そのくらいの明確な殺意が母にはあった。母はそんなことも忘れて娘を愛した母だと言い張っていたし、そういえば娘が理想の姿になると思い込んでいた。母は娘をゴミ箱にしたことを覚えていないのだ。

 

神様は私のためにはいないみたいだ

ビジネスや人集めの目的の宗教を除いての話だが、神という者がその場所でその時代にいた人々にとって、必要な助けになったことは信じている。命の危機を乗り越えたり身を守ったり、戦火の中で心を壊すことのないように受け止める存在であったことは事実だと思う。そしてその神話たちがあらゆる創作物や芸術にエネルギーを生み出したことも素晴らしいことだと思う。

 

しかし少なくとも私には全く縁のない存在なのではないかと思う。神がいるなら私はあんなに頭のおかしい親からは生まれないはずだ。ひきこもりの子供が殺したいほど憎い話はよく聞くにしても、母は私のひきこもり前から子供が受けたいじめ被害をまともに信じずに否定する虐待親であったことは明白だ。人種差別や紛争には神がいたとしても母親から虐待されている子供には神がいないのだ。それはもちろん、キリストは片親でいるので、両親というものを現実的にはあまり知らなかったり、聖書が現代まで受け継がれている途中に親子関係での辛い事とかはなかったことにされたりしてる可能性だってあるのだ。グリム童話の初版のように。だからキリストに親子の愛を頼むのはお門違いなのかもしれない。

そんな話を抜きにしても片方の親が神だった場合の親子間を参考にすること自体が非現実的なのだろう。親ガチャSSRどころか親ガチャ運営アカウント勢くらいに思ってもいい。

 

破綻した対人関係

家庭環境のせいか途方もない愛情飢餓感がある。それは秋だからではなく常にあるし、過去の穴を埋めるのはとてつもなく難しい。それが私に人といる安息や喜びを感じることに難しくさせる。スケープゴートであったり二次被害を何度も受けたことによる根拠のある不信感が人に対する恐怖を警告音のように鳴らし続ける。過去のことだと言う人もいるが、記憶が消えずに発作のようになっていて過去と呼べるわけがない。普段はあらゆる話題をする私が人間関係の話に限っては昔から時が止まって二重人格であるように見えると夫が語るほどに、私の愛着の問題は深刻なものになっている。

 

私は何年も母の理不尽や私が受けた仕打ちのことを考えている。フラッシュバックで忘れられなかった期間の長さから嫌でも考えざるを得なかったし、記憶が改ざんされるほどの忘却の猶予さえなかった。神に頼るという治療法を私はおそらく使えない。私はもう綺麗な人間のふりをした邪悪な信仰者を見ることに疲れているし、自分はそうなりたくない。神に頼った時に人は愛するための席を神に譲ってしまい、子供は休みなく一生立たされてしまうのだ。

 

私は何度も起きたことを確認し、母が間違いであったり私が間違いでなかったことを何度も見直している。その上で神経やフラッシュバックなどの問題で殺されるかのような異常なプレッシャーが刻み込まれてしまったことや、それが取り除かれることはないのだと思うと苦しい。そしてその障害が他人からは自己責任だと批判されるだけであることもだ。みんなが自分の荷物をかばんに詰め込んでいる頃、私はずっと親の荷物持ちだったのだ。自分の責任、自分のもの、自分というものが守られて育つってどんな気持ちんだろうな。