ドッジボールもドッジボールが好きな先生も大大大嫌い

ドッジボールは嫌いだ。私がやっていたドッジボールはメロンアイスの容器みたいな色をしたソフトボールが校内に実装されるまで硬いバスケットボールでやらされていたので突き指する人も少なくなかった。それを投げるのが得意な男子が力いっぱい投げるので恐怖しかない。

 

最後の人にとしてぶつかった後の味方のため息が苦しくて、私はこのスポーツが嫌いである。ちなみに自分で投げて相手がキャッチした時もため息をつかれるし怒鳴られる。物理的なボール以上に他人からの叱責が多数からぶつけられることを知らないかため息をする側にとっては楽しいスポーツだが私にとっては最悪のスポーツだ。個人で出来る水泳は苦痛ではなかったので、人から攻撃されるのが私が運動が嫌いな理由だ。今となっては運動と責められる記憶が混じって運動のすべてが嫌いだ。

 

多人数から狙われるという心理的な負担も相当なものだと思う。心を許した相手との遊びではなく、ただクラスという形で集められた相手ではストレスしかないだろう。思えばチーム分けで勝ち負けを決めるのが悪いのであって、かわして遊ぶのであればシャトルランの如くいつまでいられるかで競えば済んだ話ではないのだろうか。

 

スポーツが出来る人間がスポーツ嫌いのことを馬鹿にするが、馬鹿にする奴らが元々この世にいなければそんなに嫌いにはならなかったのかもしれないのだ。散々責めてきた奴らが自分の運動音痴を人のせいにするなというのも矛盾している。結局あいつらは自分より劣っているものはいくら差別して虐げてもいいと思っている加害者でしかない。

 

そんな中でも私が一番嫌いなドッジボールは教師が昼休みを使ってクラス強制参加のドッジボールをやらせることであった。私は昼休みは保健の先生と保健室で過ごすことだけが人生の拠り所だった。根本的なトラウマは日に日に心身を蝕んでいき、リストカットという単語さえ知らない時代に爪を手の甲に食い込ませて自傷さえするほどだったが、それでもかろうじて登校していたのは自分に優しくしてくれる大人に会いに行きたかったからだ。

 

転校した後の教師は少し不安定な人もいたが転校前の怒鳴ってばかりの教師とも違い、家族よりもずっと優しかった。小学二年生相手にキスをするよう頼んできた教師さえいたが、それをさほど問題とは思えないほどには自分に優しくしてくれる大人に飢えていた。昼休みのドッジボールを命じる教師は理想のクラス像ばかり夢を見ている教師であったので、結構辛かった。ロッカーから飛び降りてクラスメイトが受け止めるという、信用を試すような課題を出したりしてきた。26人クラスの中で6~7人くらいがこの課題に参加しなかった。しかし参加しなかったからといって何があるわけでもない。別に教師が何かサポートするわけでもないし、生徒に何かを説くわけでもない。ただの達成感の自己満足であるようだった。