ブリジットのことを考えていた

ブリジットとテスタメントをここ最近で知った。どちらのPVも惚れ惚れとする魅力を存分に発揮していたし、モデリングやモーションを作った人の熱意に圧倒された。格闘ゲーム以外のゲームシステムでswitchに出されたら買っていただろう。その後にブリジットの性自認が公式で紹介されていた。ここまでキャラクターというものを動きや台詞で表現し尽くした挙句に、テスタメントを性別不詳とした後、この説明は必要だったのかと悩ましくなる。

 

心の性別を調べてみた話

こういう時は自分がなぜそう思うのかを考えてすっきりとしたいので考える。今はない人付き合いのなりゆきで、自分の心の性別をネットで調べたことがある。そのときは無性、ノンバイナリーであること知って以外さを感じた。たしかに私は女性という存在が持つ肉体の曲線の美しさに親しみを持っているので、自分の性別的なニュアンスでは肉体に嫌悪感をあまり持っていない。ただ女性らしい性格や振る舞い、コミュニティなんていう物とは遠い場所にいる。

 

発達障害と女性らしさ

発達障害や声が聞こえているのに言葉を脳が理解できない聴覚情報処理のような症状もあるので、私はどうしてもコミュニティに不向きな人間だ。加えて手先も不器用で、女性が持つ長所だと言われがちなものを何も持っていない。私は女性なのに女性らしい長所がない。そして男性らしい長所もないのだろう。私の心は性別がわかるほど発達をしていない存在なのかもしれない。

 

肉体の性に従って生きている

ぼんやりとした存在ではあるが、肉体はやはり女性なので生理は来るし女性用のトイレに入ったり、女性ホルモンを気にして大豆製品を摂るような生活をしている。自分がないし導く大人もいなかった私にとって身体の性というのはある程度の道筋になっているのかもしれない。男性に生まれたら私は男性トイレに入っていたのだろうし、大豆イソフラボンではなくプロテインを気にしていたかもしれない。

 

再びブリジットのことを考える

ブリジットは男性に生まれて女性のふりをして過ごし、男性の振る舞いを心掛けたあとに最終的に女性として生きるという結論に至った。私のようなあやふやな生き物にはわからない葛藤があったのかもしれないし、ブリジットは女性として育てられたから女性として生きる結論がついたのか、男性として育てられても同じ所に着地するのかはわからないところである。ただブリジットは心が女性だからという理由で何かしらの不自由を抱えることにはならないで欲しいと思う。親や村などのしがらみがようやくなくなったブリジットには幸福が待っていることを願いたい。