逃げたり避けるべき相手が親だった場合どうしたらいいのって話

自分を傷つける人からは逃げた方がいいとか、自分の直感を信じて駄目だと思った相手は避けていいとか、親がそういう相手だった私にはすべての警告がただただ後の祭りで途方に暮れる。

 

悪い例や危険な発言は、いつだって親と同じ言葉

声かけ本の悪い例とか、心理学のダブルバインドとか、こういう人からは逃げた方がいいよというものの特徴とか、子供がいじめにあったり不登校になった時にやってはならないこととか、毒親モラハラ加害者の特徴とか、そういうものに母は当てはまる。父はいたずらに横になっているだけでトドだと言って笑ったり(私は常に健康体重より下なのでただの幼児体系)、私が笑っている時にニヤニヤしていると指摘をしたりする。あの家に暮らすことは刑罰や拷問に使われてもいいのではないかと思うほどに恐ろしいことだ。自分の行いや思考も否定され、他人の一挙一動も自分への批判の材料に使われる。日常生活でさえ漠然と針の筵が敷かれた座敷牢のような場所だった。

 

加えて父も母もあまりに差別的だった。母はいじめの加害者の乱暴を許し、父は母による虐待を許し私に我慢するように言う。母と電車に乗っている時に母が体調不良の人に声を掛けに行った姿を見た時は吐き気さえ覚えるほどのものだ。私が同じ状態になったらきっと、人に迷惑をかけちゃいけないとかどうして出来ないのとか貴方のせいで予定が崩れるって責められるだけだったからだ。

 

生存バイアスは持てなかった冷たい人生

そうした親の言動に左右されず親ガチャは甘えと言ってのけるには、私はあまりにも能力に恵まれなかった。一挙一動を笑われたり比較されたり審査されるような日々で、人に過敏に反応しない方が難しいことなのかもしれないが、私はどうしても発達障害と診断が下る程度には冴えない人間であった。毒親育ちと呼ばれる人たちの中には学校や仕事場では生きていける人たちがいるが、私は障碍者用の施設を利用しても叶わないことだった。転入した初日から自己紹介で名前くらいしか知らない相手からいじめにあったり引っ越してはいじめに合う人生なので、発達障害という言葉だけではないほど嫌われ者の私にはどこにも平穏は得られない。教室にいる間も怒られたり笑われる恐怖が常にあった。

 

大人になる前に壊れてしまった

あらゆる迷惑な言動が親からであるとわかったところで、人は大体一人で暮らせるまで我慢してそれまで頑張って勉強すればいい。くらいのことを言うだけだろう。しかしその前に壊れてしまったらどうしたらいいというのだろうか。子供の頃から漠然と自分は嫌われる存在だと思いながら生きてきて、頭に自分は死ぬしかないって思考しか浮かばないほどどこに行っても人から嫌われた私に、自分の身の周りすべてが批判に利用される家にいた私に、外や希望をどうやって持ったらよかったというのだろう。不登校になってから元々わからなかった英語以外の勉強もわからなくなり、自尊心を失い自傷の衝動を抑えたりそれにも失敗して自殺未遂をした人生で、逃げたり言い訳をしたのが悪いなんて言われてもどうしたらよかったのだろう。逃げなくていいような場所で育った人たちが私は羨ましい。

 

人で癒される世界から遠い場所にいる

母の家系には統合失調症、父の家系にはうつ病がある家庭に生まれた私は、親の異常性がなくても発達障害精神疾患になることは変わらなかったのだろうか。つい最近になって統合失調症発達障害になるゲノムが重複しているという話を聞いた。

 

その時点で解決方法がないのに私には人間関係のあらゆるトラウマがあり、今さら人の選び方を知ったところで人と同じ穏やかさは得られないことが苦しい。人に選ばれるには私はあまりにも無能である。世話をしてくる人間の見返りを求められることにも疲れた。明るい人間には逆に私が疲れてしまう。

 

なぜなら本当に明るい人間は私と接することで役に立っているという承認を得ながら生きる必要性を持たないので私と接するようなことをしないのだ。そういう偽りの明るさや優しさを持った人間のふとした爆発を食らってきて私はもう疲れ切ってしまった。私よりも器用に色々なことが出来るし私より普段落ち着いた私よりも多くを持った人間からずるいと言われるといつだって困惑する。私は相手の善意に一方的に助けられ一方的に悪とされる。一人で出来るならとっくにやっている。私だってそうなりたかったのに、それが出来る人たちが私にずるいって言ってくる。

 

私はもう医師が期待するほどまともな人間の側ではないし、医師が知るようなまともな人間ばかりの世界に辿り着くことはないのだろう。助けが必要な人間は助けたくないような人というのは本当なのかもしれない。

 

私が統合失調症だから相手が悪く見えるだけだと思うだろうが、そばにいる夫が違う世界に来たようだというほど人の悪意という被害に一緒に巻き込まれているので事実である。私自身不安になって夫に私が怒るのは間違いではないんだよねと聞いているので間違いではないようだ。

 

ちなみにこの前も排水が詰まったので大家が業者を呼んだらシルバー人材のような人が現れて水を床ぶちまけられたり汚れたホースを床に置かれたりした。前回個人で呼んだ業者ではそんなことがなかったので唖然としていた。おまけにぞうきんがないか聞かれたりした(業者ってなんだ)。おそうじ本舗では新聞を敷いたりビニールを貼ったりしているし、勿論ぞうきんを頼まれたりしないので私はそのまま汚れたものを置かないでほしいと言ったら、こんな狭い家なんだからしょうがないじゃんと逆ギレされた。突然破壊しに来たり家の大きさを馬鹿にするような業者を前にパニックになった。後から話を聞いた夫からしたら業者がため口の時点でおかしいだろと言われるが、私は家にいても人から辛く当たられる事実があまりに恐ろしかった。その後に業者は別の業者に変わったらしいがとにかく私は人から粗雑な対応をされる頻度がとてつもなく高いのだ。家でくらい平和で過ごさせてほしい。その後に夫が対応した業者はあっさりと解決させて帰ったという。

 

夫以外に人間関係の作りようがない

相変わらず夫と通院先の医師以外からは人間扱いされない人生を過ごしている。つい最近は趣味の共通から結婚に至った夫が語学という全く方向性の違う趣味(夫からしたら変わらないらしい)を持った挙句、従来の趣味の時間がなくなってしまった。とりあえず私も教材が豊富そうな英語に手を出しているが、どうしても出来ないやわからないというパニックから抜け出せなくなって終わる。何が○○詞なのかわからないという日本語の理解の問題なのではという場所で引っ掛かっている。英文を日本語に直すのも上手く日本語が組み立てられない。ひたすら英単語の意味を答えているが、覚えているのかはよくわからないし文法が壊滅的なので使えないだろう。正直世界史で物語のような文章を見るのは楽しいけれど単なる文字の羅列をひたすら見るだけの語学はあまり楽しくない。文字の歴史を見るのは楽しいだろうけど何百何千と意味を覚えるのは退屈だ。

 

ただ夫が夫の趣味をしている間私はどうしようもなく寂しくなる。一人で過ごしている時は寂しくないし他の趣味をして時間を潰したり過去の記憶や自己嫌悪で勝手に時間は過ぎていくがそばにいるのに接していないのは寂しくなるし時間があまりに重く感じる。こういう時に本当は依存先が多い方がいいという医師の話を思い出す。ただ人から愛されず求められず虐げられやすい人間というものがその解決方法を使うのはあまりにも難しい。自分に対する目を投影して相手も自分を嫌っていると思うにはあまりにも理不尽が多すぎた。