夫の新しい趣味とクリスマス

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

 

夫が国際情勢や言語などにハマった。趣味が合うので結婚した夫の変化に焦った私は英語をしようとして挫折したり、二次元と比べると自分という存在が干渉する三次元に夢も希望も見出せないことに頭を抱えたりしていた。そうした混沌の中で、海外のアニメを見るようにしたり他国の料理をするようになった。ようするに私は普段の趣味とあまり変わらない。

 

中国語も勉強してみている。英語の失敗経験から英文字への苦手意識が残ってしまったので漢字を選んだのだ。中国は二次元からモチベーションを供給を受けつつ出来ることも強みだ。同じ理屈で韓国も可能だろう。夫からしたらもっと歴史や文化を見て行わないと飽きると言われるが、時間が掛かるであろうことなので気長にやるつもりである。

 

今年はフィリピンのクリスマス料理を作った。パンシットという麺料理とフルーツサラダという練乳と生クリーム(今回はクリームチーズも追加)を果物に混ぜる料理である。フィリピンでは長い麺は縁起がいいらしく祝い事のときによく食べられるとか、甘べものが好きなので甘いケチャップもあるらしいとか、そういう知識の話題をしながら料理を食べるのだ。たまにはいつもと違ったクリスマスも悪くない。毎度やる度に思うがクリスマスは24日と25日をクリスマスらしくしても料理のネタを消化しきれない。来月もクリスマスってことにしようかな(フィリピンは9月からクリスマスの準備をするらしい)

 

東南アジアと言えばパクチーが入っていたり魚醤が入っていたりと独特な香りと味わいの物がある印象だったが、フィリピン料理は甘いものが多かったりすっぱいものがあるというもので、梅干しを食べたりお酢を使う日本人には親しみやすい味わいが多い。ママシッターという料理の素にバリエーションもあるので作りやすい。おすすめはカレカレとレバーを入れなかったけどメヌードだ。スペインの雰囲気があるカルデレータは少し辛くて美味しい。来年も中国語をやったり他の国の料理を作ろうと思う。中国語の勉強も何かいい方法が見つかると良いなと思っている。

失われた故郷と呼ばれていない客

ポケモンは話題性は抜群だしグッズも多く出ていて、この盛り上がりに乗れないのは惜しいなという思いもある。突然夢女子スナイパーが現れるところも面白い。

 

ただポケモンという作品はどうしても子供が真っ当な大人になるという着地点を前提にしてシナリオを作るので非常に壁を感じる。社会に寄り添う作品であるポケモンは社会から外れ者になった私を客だとは思っていないのだ。少なくともいじめで不登校になって精神疾患になって福祉でも虐待されるような社会に居場所がなく居場所を作れない人間はあの世界に存在してはならないのだろう。そうは言っても最新作はプレイ動画だけで酔ったからどのみち出来ないのだが。

 

そうした孤独の中でもやはり昔から続いている作品の品質が不安定であることを聞くと不安な気持ちにもなるので不思議だ。住む場所を移した生き物にとって自分の居場所がなくなった場所がどれだけ荒れ果てても知ったことではないはずなのである。これが現実には存在しない故郷という感覚なのだろうか。

 

ポケモンという作品がまるごと嫌いにならなくていいようにせめて誰が何を作ったのかは教えて欲しい。ポケモンのデザインを作った人はずいぶん功労者であるはずなのに一部しか明かされていないのは少し勿体ないと思う。

 

個人的にはポケモンだけの世界でコンシューマーゲームのシリーズが増えて欲しいなと思っている。トレーナーがいなければ社会への配慮に苦しむ必要もない。誰かに寄り添うために必然的に反対側の人間を切り捨てる形にもならないし、いじめはいじめられる側にも原因があるという感想がポケモンというゲームにつけられることもないだろう。スマホゲームだとリアルタイムにも追われてしまうし、日常を忘れるような作品もまたいつか作ってくれたらいいなと、失われた故郷のことを考える。

ヤンキーは身内以外を人だと思っていない

私をいじめてきた奴の主犯は赤い眼鏡をしてきたヤンキー女であり、せっかく今日はインターネットのニュースを避けたのにそれが日常会話でフラッシュバックをして最悪な気分である。ヤンキーという奴らは身内以外は虐げるような奴らで、不登校にした人数を自慢するような下衆であった。向こうから干渉してくるのがなにより最悪だった。少なくとも相模原にいたヤンキーとはそういうもので、横浜線に乗ると人が多い東京にいるときよりも何故か汚らしい笑い声が聞こえる回数が多いのである。創作物にあるクールで誰も近寄らせない一匹狼のようなヤンキーと集団でつるんでリンチするようなヤンキーが作品で描写されることがあるが、相模原にいるヤンキーは大体後者であった。

 

ヤンキーというのは人で暇を潰すことしか知らないような愚かな奴らであり、身内以外ともなれば大半の人間を人とも思っていないのである。戦争で拷問しまくっている奴らと過激さが違うだけで同じような存在に私には見える。こんな奴らがいる学校に通わなくてはいけなかったようにしてきた日本国憲法を私は真面目に憎んでいるし、タリバンでさえ小学校くらいは学校に通わせることに絶望を覚える。私のいじめは小学校から始まったから、それだと私は助からない。世の中となぜか逆の絶望を覚えているのだ。アフガニスタンは学校に行かないことで未来がなくなる悲しみを背負っているが、私は日本の学校に行く権利も義務も自分の命を危険に晒したものだから、そういう価値観になってしまう。私は日本の学校に行くことで未来を失ってしまった。自分の未来とか夢というものは子供の頃にはすでになくなってしまった。

 

そんなトラウマがあり、私は手を叩いて笑う女に嫌悪感が湧くし、声がデカい女も駄目だし、そもそも女の喋る声そのものが随分駄目になってしまった。どうしてこの人たちは私に関わってきたんだろう。好きでもないし身内でもないなら関わらないでくれたらよかったのに。

 

その反面、身内に優しく外部に人の心がないのが一体何が悪いのかとも思ってしまう。身内に冷たくて外面はいい毒親なんぞよりずっと価値観は理解出来る分だけマシだと思ってしまう。母親がキチガイすぎて私はいじめの加害者相手にさえ怒りの消化が凄く後回しになってしまっている。母親があまりに糞すぎる。一秒でも早く自分の母が死なないかな。母によって学校に無理やり通わされたことで自分を守る権利が奪われたので、私は最終的に母に殺されたのだと思っている。私は母への怒りだけで凄く精一杯に力を使うことになってしまっている。いじめも魂の殺人だと思っているが、それに加担したも同然の母は人殺しなのだ。

 

どうしたら私は学校に行かない権利が貰えたんだろう。学校に行かない権利が欲しい。ただ安全に過ごしたいだけなのに、どうして人はそれを我儘とか他の人はもっと苦労しているとか言うのだろう。安全が欲しい。日常にも地雷があるのが怖い。学校に行きたくなかった。ただただ私は学校に行きたくなかった。

親は死んだことにしておきたい

外に出ている人はよく実家に帰るか聞かれるらしい。それはあまり面倒で不便である。私は人格否定されて世間体を気にするように育てられたので家というより見世物小屋にいた感覚があり、あの場所は家庭とは違うしあの場所にいた加害者たちは家族とさえ思っていない。世間によく見られるために私は利用されて精神的に搾取されて踏みにじられたという確信がある。あの家を否定しないと家庭というものに対する概念がおかしくなってしまう。

 

そんな中で親を庇うような発言を見ると嫌悪感と増悪が増す。毒親って言葉を否定する人はみんな子供の頃から私の親と暮らす刑に処されて欲しい。

 

毒親から生まれなかった人たちにはどうせわからないだろうから、説明しても無駄だろうし、虐待された人間は事前に親が死んだことにしておいたほうがいいのかもしれないと思った。

日常を休んだら心の中の自分が喧嘩し始めた

昨日は買いだめもしたし作り溜めもしてしまった反動で強烈で今日が暇で死にそうになる。今日も作る料理はあるのだが日課の如く淡々としたものなので喜びがないといったところである。

 

朝から落ち込みだしたきっかけがグラブルのガチャイベントがスタートしたことである。私はグラブルをすると夫から浮気だと認定されるのでゲームが出来ないのである。とばっちりでプリコネも出来ない。そうして退屈になると自力でお金を稼いで楽しみを見つけられない自分に対する否定が凄まじく溢れ出して落ち込む。私はやることがないとトラウマのぶり返しが止まらなくなる。1日でやることを潰し過ぎてしまったのだ。

 

外に出たら嫌われるし虐げられて安全じゃない。一か所とか数年単位の話ではなくそれが20年相当のあらゆる場所での裏付けがされていて、安全というのがどこにあるのかわからない。結婚という契約の形以外に人を信じられない。その夫からさえトラウマに苦しんでいる私は歓迎される存在ではなく、出来ればそうでない時の私になって欲しいと思われている。こうならない方法が私にもわからない。

 

だからといって医師や福祉も信用できない。今まで何度も酷い目にあってきた。達成感を満たせないと切り捨てられるか、最初から見下して虐げる目的の人であるかのどちらかだ。誰と関わっても他の人と比べて自分を責めたり、愛情飢餓感で何もかもを壊しそうな衝動に陥ったりして、普通のふりなど今更出来るわけもない。

 

胸の中では自分への激しい攻撃性と、これ以上誰からも傷つけられたくなくて震えている自分がいて、そのどちらも刃物を持っているのでどちらも刺激しないように生きなくてはならないけど、その両方が喧嘩をすることも止められない。

 

医者からはこれ以上外に出ないように心の中の私と約束したらどうかと言われたが、自分を責める私はそれだけでは止められない。昔心理士にどんな自分がいるか書いてみようと言われたが、紙に入らなくなるほどたくさんの自分を書いてしまい全部はわかっていないし、まともな環境で理知的に生きてきて成果が反映されたことがろくになかったので、説得したりまとめたりする人格さえ別にいないのである。

 

現在の大人の自分とか今の自分と呼ぶには一日のうちに情緒がコロコロと変わるからそんな人格いないんじゃないかなと思っている。料理している時でさえたまに自己否定が止まらなくなるし、物事に従事しているのであって呼びかけるような存在でもないし、内側に触れたら料理している自分ではなくてトラウマ側の自分に置き換わるだろうし、困っているから調べたのは事実なんだけど心理学を読んでもこうして実感や体感が湧くことはないので困る。

規則的な体調不良

冬に元気がなくなる話は至る所で見るけれど私は秋と冬頃になると動くようになる。料理を頻繁にするのもこの季節限定だし、スーパーまで通えるのも寒い季節限定である。毎度この元気が春や夏にも続かないかなと思うのだが不思議と続かない。夏バテならぬ春バテである。

 

その元気も夕方になると全然なくなってしまう。食べても食べても身体がふらふらしてスタンド攻撃でも受けたかのごとくどんどん重くなっていくので、体を引きずってアクエリアスを飲み結局解決せず横になっている。今日はそれに加えて腕や肩が軋むように痛む。最近毎日料理をしているから疲労でも溜まっているのだろうか。今日もスーパーに行って帰ってきたら料理をした。年末年始でセールが乏しくなってしまうのが少し寂しい。

 

セールといえば現在DMMブックスではセール開催中である。半額で電子書籍が買えるのでおすすめだ。

せっかくなのでおすすめの漫画の話をするとこのマンガがすごいで1位だった天幕のジャードゥーガルは面白かったのでおすすめだ。第一巻しか出ていないけど現代物でもなく舞台はモンゴルという珍しさもあり面白かった。

他におすすめの漫画はハイパーインフレーションでこちらは現在5巻くらいだ。巷では人に勧めづらいとか言われているけどアニメーション付きPVもあったしアニメ化しないのかな。作者がとにかく頭がいい。勢いもあるしキャラクターを魅せるのが上手すぎる。

風呂の湯には悲しみが混ざっている

今日はたくさんおやつを食べた。肉まんとチョコパイで合計カロリーは400近い。これだけ食べたら食べたりないから落ち込むのだと夫から言われることはないだろうという納得のカロリーを食べて、結局落ち込んだ。

 

家事してスーパーに行って料理をして、ご飯を食べたらお昼寝して、起きたらご飯を作る。おまけに中国語をノートに書いたりもした。おやつだってケチらず肉まんを食べたし、思い切ってお菓子も追加してやった。

 

夫にたまには出掛けたらと言われるけど、私の一日は出掛けるほどの時間がない。私はその時間の大抵のことを納得しながらしていたはずだった。漢方の知識を思い出しながら食材を買ったり安いから食材を買ったりしてそれなりに達成感のある買い物が出来たはずだった。風呂に入るギリギリまで私は曲を聞いて好きな世界のことを考えて作品の続きを楽しみにしていたのに、風呂に入ったら何も意味がなかったような心地になってしまう。

 

私には何が足りなかったんだろう。運動も勉強も食事もして昼寝をして、それでも風呂の中にいると胸の中の巨大な穴に気が付いてしまう。書いていて今思ったのだが、私にとって風呂は隠れて泣く場所だったから、悲しくなる場所という習慣が身についているのかもしれない。もしそうだとしたら私はこれだけ情緒不安定でも普段は抑圧している方になるのだろうか。自分でもわけがわからないし、これからも毎日風呂には入らなきゃいけないのに住む家が違ってもこんなに悲しくなるのをどう解決したらいいのかよくわからない。