人を馬鹿にするお笑いがあるからテレビはいらない

私がテレビを持たないのは情報が選べないからだ。新聞であれテレビであれ作為的に選ばれた情報しかないのだから偏ったニュースばかりでネットニュースはよくないなんて時代は終わりだろうし、無知なコメンテーターの感想に時間を食われずニュースを見ることが出来るからネットのニュースの方が良いと思っているし、女性の声が苦手だからCMという音による不意打ちを受けないことには価値があるから動画サイトには広告が出ないようお金を払う。そんなテレビじゃなくてよかったことのひとつがお笑い番組がなくなったことである。もちろんそうした芸ではないやり方をしている人がいることも知っているしそれはよい事であるとは思っている。

 

そう思うのは私があくまで学校でいじめに合い悪口の標的にされ、その悪口がみんなで笑うものだったから、人をネタにして笑うということを当たり前にしたことが許せないのだ。フェミニストが二次元の絵は性的搾取とは言いだすのと同じではないのである。オタクは二次元の女性がこうだから女性もこうしろという話はしないが、三次元のお笑い好きはお笑いはこうだからお前は笑われるのに利用されろと言わんばかりに人を単なる道具のように利用してくるので嫌なのである。

 

どうしてそんなに嫌なのか?一緒に笑ってくれないのかという謎が傍からしたらあるらしいが、私個人で言うとまず関西人ではないからそういう文化からは少し離れてはいるのかもしれない。そんな中で日ごろ父が私に遠まわしに嫌味を言ったり笑いながら人の失敗を笑うような人であり、そんな父が豹変するようにキレたり家から追い出されたりすることがあるくらいである。私にとって笑い者にする人は味方ではなく間違いなく敵であった。人が何かを言われても気にしないくらいに保たれ育まれるべき尊厳を私は子供の頃から親に奪われているのである。家庭内に信頼がないのにさらなる他人である同級生に笑いものにされてもいいほどの信頼を持つなんて不可能ではないだろうか。それを嘲笑された人間一人の心の広さの責任にするのはいかがなものかと思う。

 

お笑い芸人にはいじめを称賛するような人もいるのでそういう人は真っ先にブロックしている。いじめを称賛するものには加害者と同等かそれ以上の嫌悪感を抱いている。

 

人を笑いものにするお笑いが好きな奴は人から笑い者にされたことがなく虐げられたこともなくずっと同じ場所に住んで人に不信感を抱かずに済んだ奴ってだけで、そうした平和な生活で享受出来た出来事を努力とか試練とか苦労とか言っているんだろうし、そんなお花畑しか知らない人たちが戦場に立ったことさえないのに強者が勝つに決まっているとか人を傷つけるお笑い最高とか言っているので嫌になる。人にとってお笑いは水鉄砲をかけているだけかもしれないが私にとっては傷口を抉られるも同然である。高圧洗浄機の如くダメージがあるのだ。

 

私ももしかしたらまともな親から生まれていじめに合わなければそういうお笑いが平気だったのかもしれない。娯楽には教養が必要だし、教養には環境が必要だけど、良い環境にはやはり親や学校の問題は切り離せないものである。人を馬鹿にしないと笑いを取れない世界の人達には他に娯楽や教養がない貧しさがあるのかもしれないが、私には笑われても気にならない精神的に守られた環境への貧しさがある。おそらくわかりあえないから私はテレビを買わないままなのだろう。子供を取り囲む金銭的な余裕がもっと増えれば人を悪く言う以外の楽しみが見つかるかもしれないので、みんなお金がたくさんあってメモリやグラボが入ったパソコンもスマホもswitchもPS5も本もあればハッピーなのかもしれない。

自分に何を求めているのかわからない

夜になった私は未消化の感覚に悩んでいた。料理を作り図書館で本を読んだ私は比較的に動いた日であったはずなのに、それでも満たされた感じがしなくて困っている。これだけ動いても自分が駄目な感覚が止まらないなら恐らく私はずっと自分が駄目だと思っているのではないか。

 

前回も一日中動き回った夜は音に過敏でイライラしやすかったし、翌日は反動で全く頭が働かない一日になった挙句に作り置きをしたことで作る料理がなくなって鬱屈とした時間がさらに伸びてしまった。外出も頭がふわふわするのが先なので身体の体力とは違うのだろうか。コーヒーを飲んでも怒りっぽくなってしまうだろうし、人参養栄湯には地黄が入っているので飲んでいいのか不安である。四物湯だけでもう地黄摂ってるから増えるのよくないのかな。

 

夫からすれば自分の内側とか人やらつまらないことに目を向けすぎてエネルギーが足りてないのではという話をしていた。夫の言っている話が理解出来ないわけではないが、自分の能力のなさに足を引っ張られたり他人から転ばされるようなことを繰り返していると足元を見ないというわけにもいかない。

 

今日見た本には自分が向いていることをすればいいと書いていて、出来る範囲のことをやって自己肯定感を育てていけばいいような話が合ったけど、私程度の能力で本当に折り合いをつけて自己肯定感を持つことが出来るのか今日のこの自分が気に食わなくて仕方ない感覚が苦しくてよくわからなくなる。自分が嫌で嫌で耐えられない。

お風呂に怖くて行けない話

お風呂が怖い。昔はおばけが怖くて水のある場所が怖かったけど、今はただ自分の記憶の反芻が怖くて行くのを渋くのを渋っている。幽霊やおばけはシンプルに怖かった。子供の頃はそういう漫画が流行っていたので見ていたがほとんど覚えていない。ホラー作品集の中で交通事故にあって脳みそだけ別の人の身体に移し替えたら身体の記憶に引きずられて泳げなくなったという話は身体に存在する記憶というものを先見していてよかった。シグルイにもあったが記憶というものは想像以上に身体に残ってしまうもののようだ。最近の研究で見た話だと遺伝で親のトラウマさえ宿るという。炭鉱夫の孫である私には私の知らぬトラウマさえあるのかもしれない。

 

今もびっくりするし怖くてホラー系は映像で見ることが困難である。ただ大人になるとおばけや幽霊の事情が作品内で説明されていることがわかってきて主人公よりは心境がわかって同情するようになった。台湾のゲームである還願は涙さえ出て来る。

今度アニメも始まるダークギャザリングもホラーな上に描写が結構痛々しいしその上でポケモンバトルしているが、強い分だけ残酷な過去編が備わっているので怖さよりもノンフィクションを見た後の悲しさみたいなもので胸が痛む。裏バイトの場合は人間が怖い話だったり未知の存在が怖い話だったりと怖いにも複数あるんだなと教えてくれる。

一時期は二次創作でホラー混じりなものを読み、その流れで2chの怖い話を読んだりしていた。短文でありながらも不気味な雰囲気が味わえるリンフォンが一番よかった。

 

こうして書いているうちにも時間がどんどん過ぎていく。お風呂にまだ行きたくない。人間は3日1度くらいでは臭いもかゆみも起こらなきゃいいのにな。やはり日本の暑くて多湿な気候が悪いのか。どうやらイギリスでは風呂に入る頻度が少ない人がわりといるらしい。イギリスの気候がそうさせるのか風呂に入らなくても困らない体質なのか文化が続いてるのか気になるところだ。ただアメリカだと毎日シャワーをするらしいので体質ではないのかもしれない。

(ポケモン最新作のネタバレあり)学生時代の私が今のポケモンしてたら死んでたかも

ポケモンをプレイした感想の中にいじめはいじめられる側にも原因があるなんて感想があってショックを受けた。さらにショックだったのは被害者側が強くなって耐えればいいみたいな感想を見たことである。

 

学生時代の実際にいじめられてて誰も味方がいない時に安全だと思ってたポケモンがいきなりいじめの話をしてきたらフラッシュバックが起きて何も拠り所がないショックで自殺してたかも知れない。

 

ポケモンという存在には心のシェルターであり続けて欲しかったなって思う。私はいじめにあってから制服を着てる作品は避けていたり、女性や学生の声が怖くてミスタードーナツに入れなくなっている。福祉や医療の場でもトラウマを重ねていたり、親がいじめの加害者の味方をしたり脅して通学させるような家庭だからトラウマが酷くて拒絶反応が酷いだけなのかもしれない。

 

今でもフラッシュバックや落ち込みが酷いから集中できるゲームは大いに越したことはないんだけど、私もいじめに合わなければこんなにポケモンという作品に傷つくことはなかったのかな。本当に学校なんか行かなきゃよかった。

親が頼れないと人生終わり

拠り所のない人達の支援を語る場所で酷い犯罪で経営者が逮捕される事件があった。現代の日本にある宗教という場所に所属したところで虐げられるか搾取されるかの二択である。カルト宗教でなくてもそれは変わらない。せめて国や警察がまともに動いて虐待されている人間の安全を確保できるようになって欲しい。何度か刑務所に行ってからは落ち着いて暮らせているというほど酷い虐待を受けた人の話をニュースで見たのでそう思う。児童保護施設というのも、トラウマ関連の本を見ているうちに福祉関係者からの性虐待の供述を数件見たので不安だ。親が宛にならなくても他の大人を探せばいいと言う人もいるがあまりに絶望的に感じる。

 

愛着障害複雑性PTSDアダルトチルドレンを調べていると、回復の為に宗教を使うという話があるが、やはり宗教に頼るのは危険である。正確に言うと集団に属して信仰しようとする行為が危険なのだ。家で一人黙々と信仰すれば違うかもしれないが、効果も不明である。

 

今はもう閉山している炭鉱島の元地主の子孫だったと自称する母は教会で貰った聖書を何度も引っ越しても漫画を売り払っても今でも大切に持っている。その聖書に挟まっている手紙は母の虐待的な行動を推奨するような話だった。私がいじめに合っても理不尽な我慢を強いられて複雑性PTSDになったのは母のせいであるしキリスト教のせいなのだ。頭のおかしい母が好きなものだから私はキリスト教にはもう苦手意識しかない。

 

加害者を許して被害者を弾圧する乱暴を許す口実にするから嫌いなのだ。だから宗教をやっている親を持つと毎日が悪夢のように辛くなる。倫理もありやしない場所で宗教という色眼鏡を通してしか自分が見られないのだ。宗教というのは私にとって安全の場ではなくトラウマの場なのである。私はキリスト教の許しの教えのせいで過干渉の母から一挙一動、考え方から受け取り方まで何もかもが許されずに壊れてしまった。真っ当な怒りを常に内側へと押しつぶしてきた後遺症は人として生きるにはあまりにも重い。ルールという概念そのものにさえ恐怖を感じるようになりどこにもいられたものではない。

 

主観を抜きにすると日本という国自体が宗教に頼ったばっかりに税金を貰う予定だった高所得層が有象無象の宗教によって滅ぼされて税収が知らぬうちに減っていて増税せねばいけなくなっているのでそこを哀れに思う。日本人は宗教に寛容ではあるし、それは様々な国の人が日本と国交を結ぶにあたって長所に見られることかもしれないが、どの国よりも自分たちが宗教をすることには向いていない民族なのかもしれない。

 

あれやこれやと頭を巡らせているが、根本的に毎日自分の安全がわからないので相変わらず調子が悪い。この前通院して思ったのだが、人と関わっていれば癒えるというのは、私のような存在には当てはまらないのではないかと思いつつある。あらゆる言葉に自分を否定する要素をもう感じ取れずにはいられないし、そう感じてしまう自分を責めながら恐ろしいことがあったフラッシュバックをしなくてはならないので、医者と話すのも極力控えた方がいいのかもしれない。

みんな日記がかけて凄いなって

今週のお題「日記の書き方」

日記、日記というほど毎日何かを書くのって随分難しいなって思う。私はフラッシュバックや反芻で潰れることが多いから3分の2は同じ話ばっかりしてるんじゃないかなって思う。

 

写真を撮るのも面倒臭がりだし、アップロードするのもなおさら面倒である。どうせ毎日コンビニ弁当を食べているのだから感想でも書くべきか、しかし私は毎日同じものを食べがちだし生理中は買い出しに出れないからなと続ける難しさに頭を抱える。毎日やるほど真面目にも出来ない。毎日書けてる人って凄いなって思う。

 

ちなみに今日は坂のある町を歩いていた。たまに大きな建物があったり蔵があったり。昔からあるお金持ちの建物なんだろうなと風情のない語彙の感想しか浮かばない。住宅街に突然あまりに立派な門が構えてあったので驚いたりしていた。気になりすぎて帰ってからストリートビューで見たら池まである大豪邸だったようだ。よくある建物の中に突然古めかしい建物があると少しドキドキする。柵とか門とかフェンスの造形を見るのが結構好きである。どうぶつの森もハロウィン家具で一番喜んだのはハロウィンな柵だったくらいだし柵の色が変えられるので喜んでいた。

ドッジボールもドッジボールが好きな先生も大大大嫌い

ドッジボールは嫌いだ。私がやっていたドッジボールはメロンアイスの容器みたいな色をしたソフトボールが校内に実装されるまで硬いバスケットボールでやらされていたので突き指する人も少なくなかった。それを投げるのが得意な男子が力いっぱい投げるので恐怖しかない。

 

最後の人にとしてぶつかった後の味方のため息が苦しくて、私はこのスポーツが嫌いである。ちなみに自分で投げて相手がキャッチした時もため息をつかれるし怒鳴られる。物理的なボール以上に他人からの叱責が多数からぶつけられることを知らないかため息をする側にとっては楽しいスポーツだが私にとっては最悪のスポーツだ。個人で出来る水泳は苦痛ではなかったので、人から攻撃されるのが私が運動が嫌いな理由だ。今となっては運動と責められる記憶が混じって運動のすべてが嫌いだ。

 

多人数から狙われるという心理的な負担も相当なものだと思う。心を許した相手との遊びではなく、ただクラスという形で集められた相手ではストレスしかないだろう。思えばチーム分けで勝ち負けを決めるのが悪いのであって、かわして遊ぶのであればシャトルランの如くいつまでいられるかで競えば済んだ話ではないのだろうか。

 

スポーツが出来る人間がスポーツ嫌いのことを馬鹿にするが、馬鹿にする奴らが元々この世にいなければそんなに嫌いにはならなかったのかもしれないのだ。散々責めてきた奴らが自分の運動音痴を人のせいにするなというのも矛盾している。結局あいつらは自分より劣っているものはいくら差別して虐げてもいいと思っている加害者でしかない。

 

そんな中でも私が一番嫌いなドッジボールは教師が昼休みを使ってクラス強制参加のドッジボールをやらせることであった。私は昼休みは保健の先生と保健室で過ごすことだけが人生の拠り所だった。根本的なトラウマは日に日に心身を蝕んでいき、リストカットという単語さえ知らない時代に爪を手の甲に食い込ませて自傷さえするほどだったが、それでもかろうじて登校していたのは自分に優しくしてくれる大人に会いに行きたかったからだ。

 

転校した後の教師は少し不安定な人もいたが転校前の怒鳴ってばかりの教師とも違い、家族よりもずっと優しかった。小学二年生相手にキスをするよう頼んできた教師さえいたが、それをさほど問題とは思えないほどには自分に優しくしてくれる大人に飢えていた。昼休みのドッジボールを命じる教師は理想のクラス像ばかり夢を見ている教師であったので、結構辛かった。ロッカーから飛び降りてクラスメイトが受け止めるという、信用を試すような課題を出したりしてきた。26人クラスの中で6~7人くらいがこの課題に参加しなかった。しかし参加しなかったからといって何があるわけでもない。別に教師が何かサポートするわけでもないし、生徒に何かを説くわけでもない。ただの達成感の自己満足であるようだった。