運動がちっとも楽しくならない

今週のお題「叫びたい!」

私は心療内科に通院すること10年。治療のために福祉を活用したり転院を試みてもトラウマ記憶や怒りが増え、ストレスで身体が痛みだすようになるほど悪化し、ストレス源である人や社会を避けてひきこもっているだけの日々でも怒りを思い出したり自己嫌悪に囚われたりと生活への支障は続いている。

発達障害だから私一人が他人を好きになる努力をしても、そもそも人並でない私をすべての人は嫌うのだと分かった私は、もう外に出ないことでしか自分を守れない状況になった。せめて家で平穏を獲得したいという願いがあった。

しかし生涯に渡ってきた自己嫌悪の刷り込みは、私と言う存在がいる限り追い詰めてくる存在としてまとわりついてくる。自己嫌悪をどうにかしようと思ったこともあった。しかし現実にはストレスを感じると胃痛や頭痛が始まる私に出来ることなんて何もなかったのだ。私は駄目なんだという感覚が目も開けていられないほど感覚を過敏にして心を追い詰めていく。大嫌いな自分が常にそばにいるという感覚がやり場のない怒りを膨らませていく。

神田橋処方で出来事があった瞬間を思い浮かばないようにさせても、被害にあって抑圧された感情だけは噴き出す。どうして私はあんな恐ろしい目に合わなくてはならなかったのか。過去に叫びたかった気持ちだけを叫ぶようになった。20代になった今、突然に学校に行きたくなかった。みんなが私を嫌うのだと泣いたり怒ったりしている。客観的には以前より落ち着いているらしいが不安定なのは相変わらずだ。

 

そんな私にはトラウマ治療というものが必要であることは確かだが、長年のストレスで呼吸の仕方もままならない私には基礎から始めなくてはならない。問題はほとんどの方法が運動であるということだ。私は運動が嫌いなのだ。

二次元に逃避している私にとって、運動というのは世界観のない没入も出来ない非常につまらない行為だった。運動をしている人たちというのは記憶の中でいじめをやる側であったことがあまりに多く、嫌いな人達が好きなことをやる事への気持ちの悪さが抜けない。母が暗い自分というコンプレックスを私に解決するよう求めた時に、運動が出来る明るい人たちと比較されて否定されたことで、運動をすることで私は私であってはいけないという存在否定を思い出してどうしようもなく自分を傷つけたくなることが、何より決定的な運動嫌いにさせた。

毎回運動するたびに、私はネガティブな存在で運動を出来る私をいじめてきた人たちの方が存在として正しくてそれを見習わなくてはならなくて、そんな人たちに虐げられる私は価値がないからいじめられるのは当然で、気にせず明るくならなきゃならなくて今の私は消えた方がいいのだと母から受けた呪詛を毎度再生するのでどうしようもなくしんどい。自分を刺すのに使われた凶器を自分の手で持つように言われるような非常に残酷な行為なのである。だから私は本当に運動が嫌いだ。ちっとも楽しくない。気持ちよくない。気持ち悪い、汚らわしい、この人殺し。というくらいの目で運動のことを見ている。