あの日、いじめから助けてくれなかった母親

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

オリンピック開幕式に参加するアーティストの小山田圭吾という人のいじめが話題になっている。汚物を食べされるという行為の極端さからか、オリンピックの関係者だからか普段のいじめのニュースよりも問題視されている。本人が語った内容が雑誌という形で残っていることでますます取り上げやすいのだろう。

何日も話題になっているニュースを私は読んでいった。そうして悪趣味なインタビュー記事を読んでいるうちに私は被害者の母親の存在に気が付いた。その母親は息子のことをただ「いじめられる個性がある子」と表現し、加害者には「元気でやっているみたい」と表現していたことが私の中で加害者の悪質な行為の数々を見たときよりも、深い絶望や憎悪のような感情が湧き上がってきてしまったのだ。いじめというのを誰よりも身近な存在である母親が肯定してくる暴力性が私は恐ろしかった。私は私の母を思い出さなくてはならなかった。

私はいじめが合ったら大人に相談しようを信じていた子供だった。だから中学生の頃に母親に相談した。そうしたら「あの子は読書感想文の賞も取った凄い人だから悪く言わないで」と言ってきた。私が不登校になって身を守るまで、クラス中で悪口を言って、触れば気持ち悪いと言われ続け、胸倉をつかむ暴力まで働いたいじめの主犯の女のことを、子供が精神疾患にもなって不登校でいる状態で、突然普段見向きもしない学年便りの話題を持ち出し、いじめの主犯だと教えた相手のことをあろうことかあの母親は褒めたのだ。

私はそのことが頭から離れなくなった。私はいじめのせいで受けた理不尽をさらに刻み付けられなくてはいけなくなってしまった。味方が誰もいない世界ということを確信づけられなくてはならなくなった。小学校の頃にもいじめに合っていて、相談しても「お前は頭がおかしいから病院に連れて行く」と脅した母親に、捨てられる不安を抱えていたが、この時私は母にいじめの加害者以上の怒りを持つことになった。

いじめのフラッシュバックは止まらなくなった。そうすると母は「過去のことを根に持つ性格の悪い陰湿な子供」と私を責めた。自殺未遂を数年経ってするようになった。私が発達障害だと分かると「貴方はいじめにあっても仕方ない」と私にいった。その時、私が加害者から受けた加害行為のすべてをまるごと母が肯定した事実への怒りで心身が支配されるようになり、ストレスで痺れが出るようになった。

心療内科の先生にはいつも「他の人は許されるけど私は許されなくて、私は私であってはいけないみたいだけれどどうしたらいいのかわからない」と常に相談するようになった。人に迷惑を掛けない薬を飲ませて欲しいという母の言うままに私は薬を飲み続けていた。

母はきっと私が世間様とは違う価値のない人間だったのだ。私がいじめに合うよりずっと前から誰よりも先に私への障害者差別を診断される前から向けていた。私以外の子供という憧れがあった。人の悪口で盛り上がる同級生を友達と遊ぶ明るくて普通の子だった。悪口を言われている私は言われるような悪い子でしかなかった。

 

親から逃げる方法は子供のうちはどこにもない。子供の間に私の安心が、安全が、すべてが完成することもなく崩れ落ちていく。しかし障害者である人間は虐げられても仕方がないのだ。そんな世界が今も恐ろしい。私は加害者達を許していない。むしろもっと怒らなくてはならないのに、誰よりも心から私を傷つけて私の存在を侮辱した母への怒りでそれすら出来ない。私はいじめに合った人間ということより、私はいじめに合って当然の価値のない人間というメッセージが辛くて苦しくてたまらない。

私が結婚をする時には母は「バツイチになっても私は気にしない」と言った。私は誰からも愛されないというメッセージを絶縁するまで受け続けた。重度の診断を受けるような状態のままだ。私を助けて欲しかった。学校に入っていじめられる前に、小さい頃に夜中に家から追い出された時に誰かに見つけて欲しかった。そんな感情がこの二日間に渡って終わらない。