暑いから家で過ごすのだ

現実は地獄である。猛暑に台風、記憶のフラッシュバック、そして生理である。起きているのも一苦労なのでネットで暇を潰すに限る。

 

最近ワンピースが話題なので久々に見た。原作者がしっかり監修をするようになってからのワンピース映画は全部見たが、敵の設定が凶悪になるだけに境遇が容赦なくていいものである。作品を見ているとすぐに泣くので恥ずかしくて映画館で見れないので家で映画を見やすくなって本当に良かったと思う。隣や前後ろの人の運とかにも巻き込まれなくて済む。

 

夏に見る作品なんて語り出してもAIRひぐらしやシュタゲなんて他の誰かも言ってるような作品しか言えないので、私は先々に放送される作品の予習に使うことをおすすめしたい。秋アニメに備えるのである。ちなみに今シーズンはメイドインアビスがおすすめである。アマプラで映画も見れるし最近は映画館限定だったおまけ映像が公開されたのでおすすめだ。

愛情飢餓とお姫様願望

突然に援交がしたいと思う。これは現実にするわけではない。なぜなら私は既婚アラサーブスなので市場価値もなければ私にもやる利点がない。夫が傷つくというデメリットがある。世はサル痘と梅毒が跋扈する地獄である。それなのに衝動的にこの感覚が浮かぶのは、私が女学生だった時代の感情を思い出しているからであった。

 

私の心は今でも10代の誰からも嫌われ者の自分のせめてブサイクでも10代の身体だけで需要はないかと追い詰められていた頃の感覚を反芻させる。だからアラサーだって言っているだろうと突っ込みは入れるものの、みんな私を嫌うんだという追い詰められた感覚とそこから逃れたい衝動性だけ再生される。

 

実行はしなかったが、実行しなかったからこそ今でも夢を見るように残ってしまっているのだ。あの頃も単純に性病が怖かった。10代の頃の性病で歳を取っても薬を飲んでる自分を想像したら凄く嫌だったからだ。その当時でさえ精神薬を貰って飲んでて、飲む薬が増えることが辛かった。当時は欲望を抑えるためになるべく毛を剃らないようにしていた。毛を剃った後はしばらくは常に欲望とのせめぎ合いだった。誰からも愛されない私を少しでも愛してくれる人がいるかもしれないという誘惑と戦っていた。

 

子供の頃で深刻なほど時が止まっている。ストレスを感じると頭の中がお姫様願望の自分の世界に飛んでいく。誰からも愛されない自分の愛される夢の世界を頭の中で再生しながら、誰からも愛されないから死ぬしかないって恐怖を追いやってくれる妄想をする。

 

私のお姫様願望は子供の頃に悪い人に連れて行かれる妄想から生まれた。正直自分がお姫様であるかは重要視されていない。ただ誰かが連れて行ってくれることが大事なのだ。王子様でなかったのは王子様は悪い人から助けてくれる存在であって、親が悪い人だとわからなかった状態では悪い人が連れ去ってくれることでしかイメージできなかったからだろう。私は外に出なくていい誰もいない場所にいられて、さらった人からは必要とはされていて、さらわれた私は家族から心配されているなんて妄想をして、そうして幼少期に安らぎを得ようとしていた。

 

いつも楽しそうにしている夫を見て、私は何かやりたいことはないか考えたけれど、子供の頃からしてこんなに受動的で閉鎖的な願望を持った人間が何か気力を持てるわけがないのかもしれない。家族から愛されていたら私はもっと違う夢を見ていただろうか。

嫌いな専業主婦の私と嫌いな専業主婦の母

自分に言い訳が立たなくなって死んだ方が良いなって思うことが頻繁にある。社会から見ても親から見ても私は死んだ方がいいやつなので、私は必死に一日中自分に言い訳をしているし、そのネタが尽きたら死ぬしかないという感覚に陥る。何かに没頭するのはあまりに難しいし、集中できる時間は非常に短い。やってるゲームというのもどうぶつの森は作りたいものはとくに自分では浮かばないので誰かのを真似てまた誰かのを真似てと衝動的に気になるところだけ作るので繋ぎ目の部分が放置された歪な島になっている。まるで何も結果が出せなかった自分の人生みたいな島だ。

 

私は専業主婦になった。昔はなんか大人になったら事務の椅子に座ってるか生活保護で暮らしてるのかななんて社会の教科書を読みながら思っていたが、どちらかというと生活保護側に寄ってしまった。この時から既に社会に対する壁を感じていたけれど、まさか病名までつくようになるまでとは思っていなかった。当時の私が思っていた以上に私は世界から嫌われ者だったし、そのダメージをなかったことに出来るような忘却の機能が備わった人間じゃなかった。

 

私は専業主婦である自分が嫌いだ。なにせ専業主婦を名乗る癖に自分の飯は朝食以外はいつもコンビニ弁当だからだ。夕食は夫分さえおかずが足りなくてコンビニで品数を足してる。どうしか増やそうとしてもコンロが使えないからボソボソの卵焼きがレンジで出来たり、ブレーカーを気にして1品目ずつ料理するので品数が少なかったり、食べたりなくてパニックを起こすことがあったからだ。スーパーで総菜を買うと大体食中毒になるので値段も張る。

 

それはそれとして私自身が専業主婦であることが嫌なのだ。それはたぶん専業主婦という職業にではなく、母が専業主婦だったからだという個人への嫌悪感が漏れ出ているだけなのだろうけど、それでもやっぱり好きになれない。

 

母は私よりマメに家事はしていたし、料理も失敗はしなかった。コンロが使える料理環境だから一緒にキッチンで分担して3口コンロを稼働させながらサラダを切ったりしていたこともあった。だけどそうした母の家事仕事を知った上で片付いた部屋の中で無言で食事を取りながら家族全員が死にたいって言ってた環境の環境のことを思うと、こんな作業には本当はなんの価値もないんじゃないかという気持ちになる。だから私自身が家事をしているだけだと、なんだか間違っているような気持ちが常にまとわりつく。

 

あの家は母にとっての百点満点にならないと存在を否定されなくてはならなかった。母は私のことも父のことも兄弟のことも、なんなら母自身のことだって否定していた。そうは言っても母はいざ責められるとすぐ保身はするのだ。それでも私の私が私であってはいけないという感覚が常に続いている。

 

私は一体どうしたらいいんだろうと悩む。だけどこれ以上傷つけられたくないとか、これ以上悪者にされたくないとか、そういうことしかわからなくてやっぱり何も手につかない。

漫画のキャラと読者である私の温度差

あらゆる作品を新しく見始めてキャラクターたちがダメージを受けるとき思うことがある。この世界観の中でどのくらいこの攻撃でダメージを受けるのかわからないからどのくらい緊張したらいいかわからないというものだ。

ジョジョポルナレフは身体をバラバラにしても死なないし、ダイの大冒険のヒュンケルは溶岩に沈んでも問題がなかった。その一方で進撃の巨人では巨人の能力持ちとリヴァイ兵長以外は人並の耐久力だったと思う。だから最初はキャラクターがダメージに耐えると平気なのか?まだ平気なのか?という耐久チェックの感覚で見てしまう。

 

そしてフィクションに対しては人の死に対する重さの感覚が現実と比べて離れている。呪術廻戦で主人公が人殺しを否定しているが、読者である私にとっては知ってる他作品のキャラクターと比べて何を言っているんだという気持ちになってしまう。

現実だと当たり前だろって言葉のはずなのに二次元に厳しい。作者の好きな作品を私があまり読んでいないから作者の世界観が理解できないのかもしれない。知っているのはfateコードギアスくらいだろうか。切嗣を知っている作者が主人公の感覚を作っていたり、自己犠牲の価値観を最初に推し進めていたのだろううか。作品内から読み取るのではなくメタ視点でしかわからないので読んでいて心苦しい。ハンターハンターも読んだが、ゴンの価値観は宇宙人かと言いたくなるほどよくわからない。

私はどうしてもいじめにあった挙句に親まで加害者の味方をされるという倫理観の殺人被害を受けた境遇があるので、二次元でくらいいじめっ子は殺されて当たり前でないともう正気が保てないのがあまりに大きい。私はいじめをやった本人よりもいじめを許した世界や家族に殺されたと思っているので、いじめの加害者に少しでも寛容な人間を見ると過去の誰も味方がいなかった感覚が身体中を走り回ってしまう。

 

学校に行かなければ私は主人公の気持ちが理解出来たんだろうか。誰か私に学校に行かなくてよかったIFの世界をください。あるいはいじめをした人たちや学校を責めてくれる親から生まれた世界をください。もっと平均的な人生で平均的な感想を抱いていろいろな作品を楽しめる人間になりたかったなと思う。

夫婦の会話ってなんだろう

夫婦の会話ってみんなどんな話をしているのだろう。私は世間話というものが非常に苦手なので人との会話方法が実を言うと全然わからない。こういうブログのようなもので一方的に喋るとか、趣味の話という共通のコンテンツを離すのはわかるんだけど、日常会話みたいなものは全然わからない。学生時代は悪口で盛り上がっている声しか聴いたことがなかった。

 

デイケアにいた頃は私を練習台にしようとした利用者の人がいたけれど、突然スポーツ選手の話をされてスポーツ選手のことは良く知らないと答えたらその場で頭を抱えて黙り込んでしまったことがあった。スポーツはどうしてもあらゆる番組を潰してきてみたかった作品を奪った存在だから、自分で運動が嫌いなのとは別に見ることにも嫌悪感がある。昔は見てたけどいじめられてからは人の声を聴くことが苦痛なのでテレビ自体見るのが辛い。

 

自分の親と話すと大体母親からは否定から入られるしニュースの話題も母が偽善者的な意味合いで倫理観が終わっているのでろくに出来ない。父親はすぐに○○を見習ってみたいな当てつけの話をするし俺は馬鹿だからって自虐が始まってしまう。父と母は仮面夫婦だから最低限の話しかしない。父が母を喜ばせようと買い物をしては母から怒られため息をつかれるような、お世辞にも人と楽しく会話できる世界観の人間は家庭にいなかった。

 

夫とは楽しく話せている。ニュースの話をしても毎度のように人を悪く言ってはいけないなんて思考停止で返されることなく、怒りや混乱の気持ちを聞いてもらえたり共感してもらえる。夫は間違いなくホストやカウンセラーになっても人気者になること間違いなしだろう。と言いたくなるくらいには考えながら会話をしてくれる。俺は馬鹿だからで会話が遮られることがない。学校のように言葉がおばさん臭いと馬鹿にされることもない。

 

とくに助かるのは食事中に携帯を使っても怒られないことだ。いくらでも話題は拾えるしわからないことはすぐに検索して結果を教えることが出来る。実家で会話がないと嘆いていた母もテレビを流すのではなく食事中に携帯を触るべきだったのだとわかる。

 

ただ夫と話す話題は国際ニュースとか政治とか、人と会話に出すのに不向きとされるジャンルが多い。統一教会創立者は韓国でキリスト教の長老派だったらしく、日本の統治時代の長老派は日本に追い詰められて殉教者が出たり投獄されていたらしいというのが最近の話題だ。夫からは他の人とは出来ない会話が出来て楽しいとは言って貰えるが、それらを除いてさらに趣味の合わない人間と話すなんて何を話すんだと謎になる。夫に聞いたら男社会独特の女に対する話題に合わせて話をするらしい。不倫するなら○○県がいいよという話題をされたそうな。幼馴染と結婚した誠実そうな設定を持つ男性でこの言葉である。女社会は二度と御免だが男性の世界観も大変そうだ。

似ているような似ていないような夫婦

夫と結婚したのは駄目人間である私を受け入れてくれたことと話題や生活感が似ていたことだった。夫婦は似ると言う話もあるが、私と夫の性格は結構正反対らしい。夫は人を分析するのが上手いらしくイタコ?のようにその存在が移ったように相手になって思考を理解できるなんて不思議な能力を持っている。行く先々で必要とされて優しくされやすい。加えて怒ることも滅多にない。

 

一方私は自分のこと以外を考える余裕がなくていつも感情的でどこに行っても煙たがられる。外を歩いているだけで人から辛く当たられる私を見て全く違う世界に来たようだと夫が言っていたくらいなのでよほど知らない人からも嫌われてしまうのだ。

 

そんな私と正反対の夫にも似ていることがある。それは食べ物への敏感さだ。コーヒーは一週間に2回くらいを数滴しか飲めない、カレーもパウダーから作っても身体を壊すし飲み物からも影響を受ける。インスタントラーメンを食べると高確率で体調を壊す。健康診断としては問題ないらしいのに食べ物に弱い。私も食べものに影響を受けやすいので似たもの同士だ。全く違う性格なのに食べ物への反応はほとんど同じになることが不思議だ。それはそれとして同じものを食べて暮らしてはいるが夫は何故か寒がりで私は暑がりである。人の身体ってどうしてこんなに違うんだろうなと不思議に思う。

本は欲しいが知識を活用するとは言ってない

最近PMDDで生活の地獄絵図ぶりが増している。コロナは蔓延し病院に行くのはかなり危険な状況だが、いざ抜いてみるとピルなしには生きられない身体だとわかった。血栓症のリスクが上がる年齢までは、当分飲み続けることになるのだろう。ミレーナにしようと思っていたのも厳しいかもしれない。

 

どうにかしなければという荒波の中に常にいるような状態の時と、どうにもならないと脱力している時があるが、どうにかしなければと思う時は突然に本が欲しくなる。本だってタダではないので毎度買うのに半年以上は悩む。そして最終的に専門医の力を借りようとか、療法を行おうとすれば自傷が始まることに絶望するのである。図書館にさえコロナで行くことを渋るので、なかなか読む機会がない。

 

発達性トラウマやDSOという症状が当てはまるような状態にはなっているが、治療法を読んでいるだけで自分に死ねっていうのが胸の中から発生して止まらなくなるというような状態で解決方法がわからなくてとても困っている。

 

よく見かける今、ここという単語を見るだけで「今ここにいるお前は何も出来ない駄目で最低な奴だ死んだ方がいい」って胸の中に響く。別に声には聞こえずそんな言葉が浮かびだす。他の存在を意識すると「それに比べてお前にはなんて価値がないんだ死んだ方がいい」という。自分に意識しても他の物を意識するよう呼び掛けても駄目なのだ。運動も自分との対話という発言があるだけあって自分を殴りたい衝動が強くて手を付けられない。自分への攻撃性が止まらない。もう止める為に死ぬしかないんじゃないかって思う。自分に向き合うという行為そのものが逆鱗に触れると言ってもいいような状態になっている。

 

思えばこの言葉達は周りの人から受けてきた自分への対応を言葉にしたものであると思う。私はよもや私に触れる私という存在まで消えてしまっているのではないだろうか。トラウマに巻き込まれていないニュートラルな自分の部分というか、人格が複数あった場合のリーダーのような立ち位置の人が私の中には存在していないのではと思う。あまりにもトラウマの部分が中心で、出会ったら殺されるしかないくらい、自分の中でトラウマは大きすぎてどうにもならない。だから意識せず日常に溶け込むような行動を探さなければならない。そのためにポリヴェーガル理論とか東洋医学とかもっと範囲を広げたいのだがやはり実行するお金のなさに悩む。

 

今日のブログは文章を頻繁に改行するのをやめてみている。なんでも改行が多いとスマホで読みにくくなるそうだ。そうはいっても記憶の反芻の吐き出しところに読みがいもへったくれもないといえばそうである。