マスクを外せるほど世界は優しくないんだよ

マスクが嫌いな人たちが怖い

マスクをつけることを顔パンツと揶揄している話を見て何やってるんだろうって思った。そういう揶揄が好きな人たちが多いから人が怖くなって顔が晒せなくなるのにと、学生時代をマスクをつけて過ごしていた頃を思い出した。思えば学校が嫌いなのにあまり風邪をひかなかったのはマスクの効果かもしれない。

 

マスクを批判する人たちはマスクをしている人たちは病んでいるとか精神病とか散々罵声を浴びせていた。こんなに攻撃的であるのに自分達は病んでないという自信は一体どこから来るのだろうか。怖すぎて現実を見ていられないからコロナが存在しないと逃避している人々もいるそうだ。他にも笑顔がどうとか人との触れあいとか語りだす人がいる。誰もが望んでいる前提で会話が始まるので恐ろしい。

 

他人は言うほど自分を見ていないなんて嘘

学生時代は誰かの悪口を言ったり笑いものにするのが当たり前の教室にいた。芸能人のことで笑うみたいに近くにいる人を馬鹿にして笑うのが当たり前の場所というのが私の学校という場所への認識だ。私は名前を揶揄されていじめにあったし、運動下手なことを悪口で言われたりとか、自分だけでなく他人も悪く言われる空間だった。

 

そんな環境で自意識過剰とか人は言うほど人のことを見ていないという言葉は何の慰めにもならなかった。自分が見てきた現実を否定されているようでさらに悲しくなった。学生というのは息をするように人の悪口を言う生き物なのだ。

 

植え付けられた自分の見た目への不安

私はただでさえ中性的な名前をつけられていたのに、そこに父がさらに○○どんとかトドとかふざけた呼び方を私にする。幼児体系を見る度に太ってるんじゃないと言ってくるし、寝そべっていると隙ありとお尻は突いてくる。そんな対応の癖に愛想がないとか性格が悪いとかそういうことをいつも私に言ってくる。一人で何かを楽しんでいるととニヤニヤしていると指摘をされいつも冷や水を掛けられたような気持ちになった。

 

そんな状態で学校でも名前を馬鹿にされたオカマだと言われたので、私は自分が女性に見られないことが凄く嫌になった。髪を切ったら女の子に見られなくなるかもとか、女の子だからピンク色を使わなきゃとか、女の子らしいものを好きにならなきゃとか、プレッシャーがたくさんある生活だった。女の子らしさをアピールしすぎても攻撃されることを別の人への被害で見てしまったので、逆にピンクを使うのが怖くなったりもした。とにかく攻撃される理由を増やしたくなかった。強迫的であるか逃避的であるかの二極で小学生時代から私は生きている。

 

いつの間に生活に溶け込んでいたマスク

マスクより先に始まったのは人前での食事を避けることだった。イベント事では食べられるのに教室では食べられない。自分の咀嚼音が人に聞こえているのではないかと怖くなった。怖くなるくらいには自分が食べる時のくちゃくちゃ音とかが大きくなっていった。そしてゲップの出やすさが食事への恐怖をより大きくした。今思えば朝起きた時に顎が痛い日もあったからストレスによる食いしばりが酷くて空気を呑み込みがちだったのだろう。

 

心理学に詳しかった子がストレスのせいだと解説をみんなにしていたけど、私はその言語化出来ないストレスをあると明言されてもはっきりわかってなかったので、家に帰ったらとてもたくさん食べているから大丈夫なのだと言っていた気がする。

 

その後にマスクを付けるようになったことは覚えている。だけど明確な理由は覚えていない。マスクをつければ表情がわからないと思ったけれど、つけても私の気分はすぐに言い当てられていることは覚えている。どうしてわかるのかを聞いたらオーラだと言われたが、私は誰のオーラも見たことがないのでよくわからない。

 

恐らくこれからもマスクをつけるだろう

精神疾患を抱えながら無理やり卒業した学校から離れてからはスーパーに行く程度しか外出しないので自然とマスクも離れて行った。それからさらに時間が経ち、コロナが来たので夏でもマスクが当たり前になった。インフルエンザの被害が減ったらしいので、これからも秋冬は今のようにマスクを付けた方が安全なのではないだろうか。

 

欧州では感染者が増加傾向であると聞いた二日後に国からマスク緩和のお達しが来るとは思わなかった。日本でも再び流行りかねないので、今のうちに必要な外出は済ませてしまった方がいいかもしれない。そしてまたマスク義務に戻るのではないかと思っている。もしそうならなくても秋冬は乾燥して顔も寒いので積極的にマスクは付けていきたいと思っているし、マスクをつけていることが人を攻撃する口実になる世界にはならないで欲しいと思っている。