アドラー心理学は日本人に銃を持たせた

毒親育ちやアダルトチルドレンに対して説教する人はあまりに多い。今回見たのもまたアドラー心理学に触発されたような者で、また自分を肯定するために心持ちという見えないものを利用し、銃乱射事件の犯人のように人を傷つけて回っている。本当に自分が誇らしいのなら他人を蔑む必要だってないはずだというのに。アメリカの銃社会のように残酷な世界をアドラー心理学は作ってしまった。武器を作ったものはその使われように罪悪を持つこともあるらしいが、アドラー心理学を流行らせている人たちがそこまで考えているかわからない。アドラー心理学の流行りが終わってポリヴェーガル理論とかに話が変わらないものかと思う。いろんなグッズも売りやすいだろうし、なんせこれが救いって言って殺して回るような感じのサイコがあまりにアドラー心理学推進派に多すぎる。

 

今回そのアドラー心理学に酔いしれている人は言い分は大人になった今すればいいというものだった。しかし形だけ真似をしても今更同じにならないことなんていくらでもある。割れた花瓶に水を注いでも花が水を得ることはないし、花が枯れてしまってからでは水を上げても遅いのだ。水のやり過ぎで根が腐ってしまえば、水さえ救いにはならない。何が救いになるかさえわからないのだ。

 

私は常に記憶の反芻や恐怖や怒り、自己否定感で居ても立っても居られないような、あの過去と同じことが起こる警戒心で常に胸に異物感を抱えているようになった。人の声が針のように刺さる自分には、人と同じ行動を真似したところで同じ幸福感を得ることは難しくなってしまった。

 

過干渉に育て上げられる。過干渉というのは常に銃を背後につきつけらがら生き、誰が悪くてもその場にいた子供のせいだとして地面に何度も頭を打ち付け土下座させるような親である。恐怖のあまりに叫び声を上げた後に敵に突っ込んで死んでしまうモブのような緊張感で生き続けることになってしまうことなのである。来るな!って叫びながら刃物を振り回すような泣きそうな気持ちで生きている。

 

何が親がキレるトリガーかわからない。日常が、自分の思想が、趣向が、何を選べば親から傷つけられないかわからない。少なくとも今の私ではない何かで、別の何かなんだけど正解はわからない。たまに親の理想のような発言をすると何故か否定で返されてますます正解がわからなくなる。わかるのは親の目の前で一挙一動することは危険であることだ。人と関わればその人間を使って責める内容を増やす。そうすると今度は無気力であることを責めるのだ。内気で友達がいないことを責めるのだ。高校生の頃の私の口癖は何を好きになれば正しいんだろうという言葉だったし、最近になって人は楽しいから人といるのであって私のように大人からの評価のためではなかったのではないだろうかと思う。実際はどうかは知らないけど。

 

だから私は欲しいという気力や熱意がよくわからない。ご飯を食べて寝て、それが出来る分だけまだ健康体であるのは確かだが、その無気力にどう手を付けていいかは何もわからないままだ。

 

それにしたってアドラー心理学を推進している人は嫌いだ。前向きというものへの崇拝ぶりが母のようで不気味なのだろう。母は出来なかったから私に押し付けたし常にコンプレックスで愚痴を言うし、私が出来ないと分かれば私を蔑んで兄弟にその役目を押し付けた。兄弟はそれから飲む薬も増え症状も重くなっていった。人を笑いものにして笑っていた同級生もそんな雰囲気だった。常に明るいことと前向きなことだけを自分の支えにしていた。エネルギー切れしたのか一時期しばらく無言でうつむいていながら、常に申し訳なさそうな様子で彼女に集まってきた人たちに心配されている様を見ていると、最初からそうだったらよかったのに、それでも全然よかったのにという、ざまぁないという気持ちとあの姿に戻って欲しいという気まずそうにしている周りからの期待が痛々しくて見てられない気持ちになった。誰かあのうつむいている状態でも受け入れてくれる人がいないのか、心細い気持ちになった。そうはいってもあの同級生は私を笑いものにしたのでやはり嫌いだ。私はしてるふりを幸せに思えない。いずれバレる、いずれ裏切る。そんな恐怖で楽しい気持ちになんてなれるわけがなかったから。だから私は今でも同性の人間関係はゼロであるし、だけどいずれこうして一人を選んでしまうのかもしれないと思った。私が人と同じ心地よさを抱けない感性であるとわかってしまったからだ。あの同級生にとってあれが幸せなのなら、やはり人の違いというのは大きく、一人が助かったからその方法を押し付けるというのは困難なことなのかもしれない。